ペトラルカ風に ペトラルカへの手紙 その5

ペトラルカ風に ペトラルカへの手紙 その5


「善い人間になること」
それが何にも優る目的であると、貴殿は『無知について』の中で述べておられます。


なるほど、これはとても大事なことです。
貴殿がおっしゃるとおり、幸福な生活とは何なのか、人間の本性とはいかなるものか、なんのために我々は生れてきたのか、どこから来て、どこへ行くのか。
こうしたことを全く知らないのであれば、その他のことについてどれほど多くの知識を持っていようと、実に虚しい知識であり、その実は無知ということと思います。


残念ながら、二十一世紀の人類というのも、大半はこの意味で、実に無知で愚かなものです。
特に、わが国・日本ではその傾向が強いのかもしれません。
この六十年ほど、わが国では、善い人間になることや、何のために生れ、どこから来て、どこへ行くのか、などという問いや関心は、迂遠なこととされ、てっとり早く金銭を稼ぐことが主要な関心事となってきました。
幸福な生活とは、要するに物質的な豊かさや安定した収入と同一視されてきました。


貴殿の過ごされた十四世紀頃が、はたして二十一世紀に比べてさほどこの意味で賢かったのか。
むしろ、実に無知で愚かなものだったことは、貴殿の歎きを見ていればわかるものですし、いつの世も大半の人間というのはそのようなものなのかもしれません。


貴殿の背骨であり糧であったキリスト教古代ギリシャ・ローマの哲学とは、日本に古来より伝わる仏教は、これらの問題に対して若干異なる応答をしていると思われます。
まず、第一に、人間がどこから来てどこへ行くのか、という問題について、仏教は三世因果、つまり過去・現在・未来を貫く原因と結果の法則に基づいた輪廻転生の教えを説いています。


とはいえ、輪廻自体は、プラトンピュタゴラスらも説いていましたし、ソクラテスプラトンによれば明白に魂の不死と原因と結果の法則に基づく道徳的な因果応報を死を超えて構想していたようなので、その点では共通性もあったのかもしれません。


また、幸福な生活とは、仏教においては、究極的には涅槃ということになりますが、その前に段階において、相対的に、法つまり道徳的な因果の法則にかなった生活を行うことにより、より苦しみが少なく喜びが多く、人間として心が成長した状態になることだと考えられます。


古代ギリシャでも、より有徳になること、徳のある人となることが、真の幸福な生活と考えられていたと言えると思われます。


人間の本性とは、しかしながら、いったい何でしょうか。
古代ギリシャにおいては、プラトンも、アリストテレスも、実に人間のあるべき姿を考察していたように思われます。
実際に人間がどのようなものであるかということは、もっと時代が下って、マキャヴェリホッブズやヒュームらが、よりあるがままに人間を見つめたと言えるのかもしれません。


仏教においては、人間の本性というか、心の仕組みについては、アビダンマッタサンガハなどにおいて非常に精緻に理論化されています。
あるがままに人間の心の仕組みを理解し、その上で人間の心の堕落を避けて、よりすぐれた心を育てていこうということに関して、仏教はのちの世の哲学者たちのアプローチの仕方と、古代ギリシャの理想と、両方をすでにバランスよく達成したものだったと言えるかもしれません。
もっとも、日本に伝わり広まった仏教には、実際問題として、ほとんど心の科学としての要素や、また心を育ててより有徳な人間になるという要素が、どういうわけか抜け落ちがちであり、なおざりにされがちだったとは言えるかもしれません。


要するに、「善い人間になること」という目的において、つまり我々が何のために生れ、どこから来て、どこへ行くのか、幸福な生活とは何か、ということに関して、人類は今もってさほど賢くなっていないということ、そして今もって、古代ギリシャやローマ、あるいはルネサンスや近世・近代のヨーロッパの思想哲学、また仏教などから、学ぶことは非常に多いし、学ばなければ愚かなままだということです。


そうであれば、貴殿が率直に述べ、打ち出したような、冒頭のような要素や問いかけは、それらが迂遠なものとして軽視されがちで、忘れられがちであればこそ、今の日本において、あらためてはっきりと直視されるべき事柄なのかもしれません。