単なる指導者待望論からは卒業を

永田町の政治は古過ぎる 動かぬ小沢に失望落胆する声
http://news.livedoor.com/article/detail/6087429/


この種の記事や主張が大真面目に小沢派によって論じられていることをしばしば見ると、暗澹たる気持ちがしてくる。


小沢派の「なぜこんなヒドイことになってしまったのか。政権交代のあの時、小沢一郎を首相にしておかなかったからだ。」という発想の粗雑さにはただただ呆れるばかりである。


要するに単なる指導者待望論だ。
単なる指導者待望論では、実際は何も変わらない。


どうも日本人は、制度や世論の変革で世の中を動かそうという発想が乏しく、単なる指導者待望論でしか政治を発想できない人が多いのではないかという気がする。


18世紀のイギリスでいえば、ボリングブルックの「愛国王が出ればすべて問題は解決する」といった発想レベルだ。そんなことはありえない。


政治というのは社会の勢力関係の反映だ。
もちろん、多少の誤差や偏差はあるが、基本的にはそうだ。
したがって、世の中を変えるには、地道な世論の変革・意識の変革が必要だ。


かつ、特定の個人に頼らない制度的なアプローチが必要だ。この二つが伴わない単なる指導者待望論ほど不毛なものはない。


小沢派の馬鹿げた指導者待望論も不毛だが、昨今の地方自治体の選挙もある種の指導者待望論や大衆煽動が跋扈しているようでもある。


問題は、現実に何が問題であり、それをどうするかについての、具体的な政策や争点への理解を多くの人が深め、その結果として選挙で有権者の意志が働くことだろう。


いいかげんに、馬鹿げた指導者待望論は卒業して、人が変われば何かが劇的に良くなるという幻想はやめないと、政治はいつまでも良くはなるまい。


批判するだけならば社会党と同じ。
馬鹿げた妄想や文句にばかりうつつを抜かさずに、具体的な政策や人材養成に力をそそぎ、
どのような国を、どうやってつくっていくのか、そのことをこそまず大事にすべきである。