現代語私訳『福翁百話』 第六十一章 「行き届かないことも御愛嬌のひとつです」

現代語私訳『福翁百話』 第六十一章 「行き届かないことも御愛嬌のひとつです」


人間であって自分で自分自身を卑しめる人はいないことでしょう。
どのような愚かな人であっても、どのように謙遜する人であっても、その心の底には必ずなんらかの自分を大事に思い尊ぶ気持ちや考えが存在しており、あらゆるすべてのことにおいて他の人の言葉や行為に感心して従うことができるわけではありません。
ましてや、それほど愚かでも謙遜家でもない人であれば、言うまでもないことです。


少しでも才能や能力のある人であれば、人と接してたとえ外面では尊敬している様子を表して相手に従っているようであっても、裏側では必ずしもそうではありません。
場合によって、相手方の言葉や行動に行き届かないところがあれば、心の底では冷笑してひそかに嬉しく思う気持ちがないわけではありません。
つまり、人間の人生における一種の自負心であり、それが変形すれば嫉妬心と呼ぶこともできます。
ですので、人間の智恵や知識や才能は、たとえるならばなんらかの目に見えるものを私的に所有するようなもので、それらを豊富に持つ人は、他の人々から尊敬されるのと同時に、自然と羨ましがられることにもなります。


ですので、あらんかぎりの智恵や能力を発揮して、弁舌巧みに大いに活躍して、万事に配慮や注意を行き届かせ、いかなる困難にあっても他人の忠告などには耳も貸さず、徹頭徹尾ぬかりない様子であることは、一見大変感心することですが、普通の人間の感情から見れば、あまりに行き届きすぎてかえって愛嬌に乏しく、そのためにしまいには人に憎まれ疎んぜられる恐れがあることでしょう。


低級で卑しい人間の感情の世界においては、隣の家の財産を羨むことはよくあることであり、その他人の成功や失敗はそもそも自分には関係ない場合も、それでもその他人が失敗したり没落するのを見てひそかによろこぶ人が多いものです。
ですので、たとえ智恵や能力に多く恵まれている人であっても、社会において人々と接して生きていくに当たっては、その事柄に損害があるわけでもなく自分の独立を妨げるわけでもない限りは、言葉や行為において鋭い矛先は丸く包んで見かけ上の様子は優しいものとし、知らないことを知らないものとして人に質問する場合はもちろん、場合によってその質問に対する答えに愚かな説があったとしても、すぐにそれを退けたりせず、念を入れてきちんと耳を傾けて聴くべきです。
また、そうした受け答えの時も、自分が、時には口をすべらせることもあるかもしれませんし、大間違いをして笑われ赤面することもあるかもしれません。
しかし、そのような口をすべらしたり、笑われて赤面することも、すべて無邪気なことであれば、かえって愛嬌のひとつになります。
人間のコミュニケーションにおいては、この上ない味わいとなることです。


貧乏な人ばかりの世界において、経済的に裕福な人が適切な振る舞いをすることは簡単ではありません。
もしそのことを知っているならば、愚か者ばかりの世界において、自分ひとり智恵や能力を輝かしく発揮しようとして人から嫌われるのは、いかがなものでしょうか。
これまた一種の愚か者を自分でつくりだすことと言えることでしょう。