現代語私訳『福翁百話』 第五十一章 「生きていくうえでの勇気」

現代語私訳『福翁百話』 第五十一章 「生きていくうえでの勇気」



何も見えない人が千人万人、理性もなく感情ばかりで生きており、そうした人たちばかりのこの世の中にいて、自分自身の生き方を求め、さらに進んで社会全体の進歩を目指し工夫するためには、熱心に勉強し自分で努力する力がなければなりません。


静かな室内でひとりで座って深遠な哲学を考えたり、ひとりで考えて悟ったり哲学的思考を楽しんだりし、もしくは丁寧に人にそうして会得した哲学を説いて悟らせようとするようなことは、たしかに高尚なことで立派なことはたしかに立派なことです。


しかし、振り返って自分はどのような社会の中にいてどのような人々と交わり、どのような目的を持ってどのような生活をするのかと自問するならば、なんと答えるでしょうか。


仕組みが不完全な社会の中で、愚かな人々と混ざって暮らし、自分もまたその愚かさを共にしており、愚かな中で衣食を求めて生活し、そのうえで余力があれば自他の愚かさを改めて智恵に向かって進歩したいと希望を持っています、と自答することでしょう。


はたしてそうであるならば、どうでしょうか。
ひとりで自分だけ納得して高尚な理論や哲学を説いても、凡庸で通俗的な世間一般の愚かな人々に興味を持って聴いてもらうことが十分できない状況は、ちょうど風流な会席料理の薄味が、野暮な人の味覚を喜ばすことができないことと同じです。
論理の筋道がオーバーであればあるほど、聴く人はますます驚いて興味を示すことが仕方ない状態です。
ですので、知識人や学者が生きていくための秘訣は、場合によっては濃い味の議論を行い、社会から超然としないで生きていくことにあると言っても、さしつかえないように思います。


十人十色の人それぞれさまざまなレベルに対して、レベルに関係なくすべてを包容し、ともに談笑して遊戯して、ともに愚かな様子を演じ、それだけでなく、場合によっては激論や喧嘩までして、熱心に争って他の議論を圧倒し、最終的には自分の思っているところに他の人々を服従させて本来の目的を達するぐらいの勇気がなくてはなりません。


そこまで至るまでの間には、しばしば道理の範囲を超えて、厳しく評価するならば動物のレベルの争いと同じこともあることでしょう。
ですので、このことを名づけて、人生の「獣勇」(動物レベルの勇気)と呼ぶことができます。
本当に見苦しい状態ですが、今の現段階での文明の程度の社会においては、どうしても避けて済ませることができないことだと理解して、あえて自らにその過ちを許すしかありません。


政治の世界のやりとりや権謀術数といい、ビジネスの世界の競争や駆け引きといい、すべて「獣勇」(動物レベルの勇気)が支配しているところです。
戦争のようなものはその頂点に達しているものです。
少しでも「楽しき我が家」(スウィート・ホーム)を離れて一歩でも外に出る時は、この「獣勇」の勇気の必要がないところはありません。


ただ、その「獣勇」の勇気の中にも、「顕勇」(目に見える明らかな勇気)と「潜勇」(目にはなかなか見えない奥深い勇気)の区別があります。


金銭でも誘惑されず、貧しい苦境にも動じず、威嚇や強圧にも屈することなく、いかなる困難試練に遭おうとも毅然として、堅固に自分を守るのと同時に、チャンスにはチャンスをちゃんと生かして勝利を目指し工夫するものは、「潜勇」(目には見えにくい奥深い勇気)の持ち主にして智恵の持ち主です。


また、憤慨する時に、幾百幾千という数多くの屁理屈やこざかしい理屈を踏み潰して振り返らず、しまいには自分の一身を忘れ、実力行使で腕力に訴えてでも目的を達しようとするのは、熱心一辺倒の「顕勇」(目に見える明らかな勇気)の持ち主です。


「顕勇」も「潜勇」も、両方ともにそれぞれ固有の効力を発揮するもので、時と場合に応じて使い分けるべきもので、どちらかのみを軽んじたり重んじたりすべきではありません。


いわゆる万巻の書物を読んできたような大先生が、ともすれば実際の人間の出来事に直面すると役に立たず、生涯の間自分を生かすところを得ずにひそかに不平不満の思いを抱いて生きているという人が多くいるのも、結局のところこの何も見えずわからない愚か者ばかりの人間社会を生きていくための勇気がないためです。
そのような勇気を持たない人々は、ただあわれむべきのみです。


ですので、以上のような主張がはたして間違っていないならば、人間が世の中を生きていくための手段は勇気一つで足りるようです。
しかし、心の内側に深く遠大な理想を抱いて、この「獣勇」をコントロールするのでなければ、ただ「獣勇」だけになってしまって止まるところを知らないものになってしまうことでしょう。
ここに、つまり哲学や理論の必要が出てくるわけです。