現代語私訳『福翁百話』 第六十六章 「金持ちが長く続くことについて」
世の中の大金持ちと呼ばれる人は、新たに会社や家を興した人、あるいは父母や先祖の遺したビジネスを受け継ぎ、さらに大きくして発展させた人です。
今、ひそかにこうした人々の心の中を推察すると、自分自身が生きている間は上手に会社を経営し家計も処理して間違いないと自分で自負し信じていることでしょうが、この財産を子どもに譲って二代目、三代目と伝えていく時には、その間には、何らかの失策はないだろうか、自分の身はずっと生きていられるものではない、ましてや人間はいつ死ぬかわからないと言うから、今日は生きていても明日はどうなるかわからない、もし万一自分が死んだ後に誤って会社や家を滅ぼす者もあるかもしれない、そうなれば自分の生涯の苦労は水の泡だと、しきりに家や会社の永続の方法を思案する人が少なくないようです。
人間の感情としていたってもっともなことのようですが、こればかりは人の力の及ぶことではありません。
そもそも、今の大金持ちや富豪が今の財産を獲得した理由は、本人の智恵の力や努力であることは間違いないことですが、と同時に幸運がそうさせたものであり、その大半は世の中のめぐり合わせに首尾よく乗った、たまたまの幸運の賜物と言えます。
なぜならば、人間の社会における智恵の力や努力について、金持ちや富豪と同じだけ持っており、艱難辛苦も同じようにして、貧富の違いは天と地ほど違う事例も山のようにあるからです。
ですので、人生の偶然によって得たものは、また偶然によって失うことがあるものです。
大金持ちの家の滅亡も少しも不思議なことではありません。
しかし、そうは言っても、それでは人間の感情として黙って見ていることは難しいとして、長く続く方法を工夫するならば、その会社や家に憲法のようなものをつくり、会社の経営や家のことの一切を一族親戚あるいはいわゆる部下たちの会議に委託して、主人には何も勝手にはさせないようにするという方法が一つあるだけです。
このようにすれば、子々孫々の中にたとえおかしな者や愚か者を出すことがあっても、その愚かさやおかしさを発揮することができなくなります。
と同時に、たまたま才能ある主人を得たとしても、無駄に空しい地位にいさせるだけで、主人はいてもいないようなもので、その賢さや愚かさは会社や家の繁栄や没落とは何の関係もなく、ただ会社の名前や家の名前を長く存続することができるだけとなることでしょう。
封建社会の時代に、都会や田舎の大金持ちたちが、何百年間も長く続くことができたのは、一般的にはこうした方法をその家が採っていたがためでしょう。
家を重視し、主人を軽視したのは、そのための一つの便利な方法だったのでしょう。
しかし、今の時代は封建社会の時代ではなく、社会全般の構成や組織が封建社会の時代とは異なっているのみでなく、政治の上においては昔のありかたと反対でひたすら会議を行うことが流行となっています。
しかし、民間の私企業や私人においてはかえって人権や権利といった論調が高まっているため、一家の主人でありながら自分で会社や家のことを裁量する権利がないとは人間の自由を妨げるものだなどと主張して、いわゆる会社や家の憲法のようなものも実際につくったり実行することが難しいこともあるかもしれません。
かつ、私的につくった家や会社の憲法のようなものによって、主人を束縛しようとするのは法律上も不都合であるかもしれません。
ですので、しかたないので大金持ちの財産は代々の主人の裁量に任せて、その賢さや愚かさによって栄えたり滅びたりする他良いアイデアはないのかもしれません。
国の政治は君主の専制から庶民の会議に移り、私企業や家の政治は番頭の会議から主人の独裁へと変化しようとすることは、おかしなことだと言えます。
たしかにおかしなことなのですが、大金持ちや富豪の子孫たちが、必ずしも愚か者だけというわけではありません。
場合によっては、すぐれた人材を生じ、その時は巨万の資産を自由自在に運用し活用して大きな事業を企て、一挙手一投足によって世の中の耳目を驚かせること、昔の時代の専制君主が遠征を行い群雄を圧倒するのと同じようなこともあることでしょう。
大金持ちや富豪の家の主人が自ら経営し裁量するということも、心配する必要はないことです。