現代語私訳『福翁百話』 第六十七章 「人間には三つの種類・等級があります」
人間の賢さや愚かさ、強さや弱さは人によって様々であり、最も賢い人と最も愚かな人とを、また最も強い人と最も弱い人とを比較するならば、同じ人間とは思えないほど違いがあります。
しかし、社会の経済の上から見るならば、おおむね人間を三つの等級に分けることができます。
生まれつき障害のある人は不幸なこととして除くとして、生まれつき健康な身体でありながら、何の才能もなくただ何もせずのらくらと飲み食いし、ひどい場合には思うままに振る舞い、生業にも就かず無法な行いをし、常に他人の世話や面倒となるだけでなく、ともすれば他の人々に害を与え、自分の欲望をほしいままにしようとする者がいます。
このような者は最下等の人であり、社会全体のために考えるならば、この類の人は有害無益であり、俗に言う「娑婆塞ぎ」(生きているだけで、何の役にも立たない人の意味)の邪魔者ですので、一人でもその数が減ることこそめでたいことでしょう。
一段上に、それほど人の世話にもならず、父母や妻や子とともに生活するだけで、全然家の外の事には関係せず、間接的にも直接的にも人に何かを教えることも、また相談にのることもなく、一年間で得たものは一年間で生活し尽くして、老後や死後の準備や工夫をする暇もなく、自分の家庭だけを全世界のように思って生れて死んでいくだけの人がいます。
この種類の人は、一国の良い国民として、決して邪魔者ではありません。
しかし、社会や人間の出来事の発展や衰退には関係があまりなく、この世の中に存在して大きく役に立つものでもなく、いなくても大いに不便を感じるというわけでもありません。
とにもかくにも、中ぐらいの種類の人々です。
それよりさらに上に登って、教育の結果、あるいは持って生まれた才能によって、活発に活動し、自分の身や家庭の生計の独立をすでに確立し、世の中に面倒を何もかけない上に、さらに一歩を進めて、他の人の相談相手となり、また、社会の利害を考えて、自分自身で自分の立場や才能や力を振り返りながら、できることには進んで立ち向かうべきだと信じて、家庭の外の事柄にも力を発揮し、私人としては大いに商売や工業などを起業して経営し、公人としては政治上の事柄に関係し、もしくは地域の人々の利益を図り、あるいは宗教や教育の分野において先に立って導く人となるなど、ちょうど一人の働きを二つに分けて、一方は家庭において、一方は社会において、公共の事柄と私の事柄の両方のために力を尽くす人、この人が最上等の人です。
この区別は、必ずしもその人の経済的な貧富や地位の高低によるものではありません。
場合によっては、金持ちや高い地位であっても他人に迷惑をかけるだけの人もいますし、貧しかったり地位は低くても世の中にとって貴重な役に立つ人物もいます。
その詳細を事細かに書き記すことはとても難しいことですが、事実は明白なことであり、世の中の人が常に知っていることです。
たとえば、どこかの市町村や県で、人が死亡することがあった時に、そのことを伝え聴いてその不幸を悲しむのは人間の感情として普通のことです。
しかし、悲しむのと同時に、ひそかに噂話をし、誰それの病死は誠に気の毒だけれども、本当は地域や近辺のためには良い厄介払いだ、あの人の親類や家族もこれでともかく安心しただろう、などと言われる人は、下等の人です。
病死の知らせに接してお葬式には行ったけれど、不幸だといろいろ話したのはその日限りで、翌日からは特にその人のことを語る人もいないのは、中等の人物です。
死亡の知らせに驚くのはもちろん、病気の時からさまざまな噂となり、心配していたちょうどその時、ついにその不幸を聴いて、地域の人々がまず悲しみ、次には惜しみ、この人に去られてはなどと泣く人もあり、うろたえる人もあり、何年も長い時が経っても、なお人々の口にその名前が残り、消えることがない人は上等の人物です。
ですので、今の人が偶然にもこの世に生れてきて、その個人としての日ごろの行いから家庭生活や社会生活の方法に至るまで、上等にするか、中等にするか、はたまた下等に陥るか、その人次第です。
この上中下の区別は、必ずしも先生や学者に質問する必要はありません。
身近な地域の人々の心が、慕う様子や嫌う様子を観察して知ることができます。
「社会は良き先生である」と言います。
つまり、こうした事実のことでしょう。