現代語私訳『福翁百話』 第六十章 「賢さや強さの程度の違いは愛情が起こるもとです」

現代語私訳『福翁百話』 第六十章 「賢さや強さの程度の違いは愛情が起こるもとです」



同じ極同士は反発し合い、違う極同士は引き合うというのは電気学の法則です。
プラス極とプラス極、あるいはマイナス極とマイナス極が近づけば反発し合います。
それと反対に、プラス極とマイナス極はお互いに必ず引き合ってくっ付くのが決まりです。


よくよく人間の感情や情念の世界の姿を観察すると、電気学の法則に準じたものがあるようです。
男性と女性という二つの名称で呼ばれる存在がお互いに近づくと引き合うという事実は今更言うまでもありませんが、一般的に人間の人生においては、智恵ある人と愚かな人と、強い人と弱い人と、その様子が違っている方が、お互いに親しみ愛し合うことが簡単であり、智恵ある人と智恵ある人とが接したり、強い人と強い人とが近づく時は、ともすれば衝突を免れないのがよくあることのようです。


父親や母親が子どもを愛することは、天が与えた生まれながらの性質とは言いますが、別の側面から言えば、生まれたばかりの子どもはまだ体も小さく弱く、知能も発達しておらず知らないことばかりで、ただひたすら父親や母親に依存するしかないために、親の愛情もまた一層深くなると言えます。
多くの子どもがいる中で、身体に障害があったりしてほとんど身動きができなかったり、あるいは勉強の出来が悪かったり、放蕩息子であったりする子どもに限って、特に両親の愛情を一身に受けるということも、このような理由で理解できます。


ですので、たとえ生れてきた子どもであっても、次第に成長して一人前の男性や女性となったならば、親子の間の愛情も次第に様子が変化していって、子どもが赤ん坊の時のようではなくなることは、子どもの心身の発達によって賢さや強さの程度が父親や母親と比較した時にそれほど差がなくなってきて、本来は違う極のようだったのが次第に同じ極のように変化した証拠と見るべきです。


この決まりは単に親子の関係だけに限らず、広く社会のさまざまな人間の交際やコミュニケーションの姿において法則となっていると推論できるものです。
世の中の女性好きな男性が、ともすれば正妻を退けて妾を愛するのは、ただ単に妾の容色を愛するだけではありません。
正妻はともかくも夫と同等同格であり、自然と遠慮したり憚るところがあるのに対して、金銭で買った街の女性はその立場もはじめから主人である男性に張り合えるはずもなく、ちょうど一種のなぐさみものやおもちゃみたいなものであるため、男性の強い立場によって貧しい女性の弱い立場をもてあそび、そうした関係にこの上ない楽しみを感じているものだと推察して間違いないことでしょう。
あるいは、そうした妾を愛する人は、美人の美を愛すると同時にその才知を愛でているという主張もありますが、その才知とは単にその場をうまく切り抜ける機転のことか、あるいは一歩進めても詩歌をよくつくり達筆で書にすぐれているという程度の才知であり、いわばなぐさみものやおもちゃがちょっと高尚になっただけのことです。
もしもその美人が、社会や公共の事柄を志して、いつも主人と議論をして得意となるようなことがあれば、愛情は自然と冷めることでしょう。


西洋諸国の女性は、家の財産が豊かであれば男性よりもかえってすぐれた教育を受けて、(結婚の後もその夫の才能や学識に感心しないだけでなく、ひそかに夫を軽蔑するような様子さえある場合もあり)、夫婦の間がともすれば穏やかでない人も多いと言うのも、賢く強い者と賢く強い者との衝突に他なりません。


その他にも、昔の時代における君主と臣下の関係や先生と弟子との関係、今の時代における政党の首領と党員の関係や、軍隊の将校と兵卒の関係などにおいて、お互いに親しみ愛情を持つのは本来の地位や才能においてその強さや賢愚が異なっているものがあるからです。


こうした類の事実を数えれば本当に枚挙にいとまがありません。
人間の世界において、強さや賢さのレベルが伯仲し匹敵していてお互いに親しみ愛情を持つ事例はほとんどないと言えることでしょう。


ただ、この同じレベルで匹敵する者同士を仲良くさせる方法は、それ以上にさらに一段レベルが上の強い賢い人がいて全面的に他を圧倒しているか、もしくは外部に脅威となる存在があるために内部においてお互いに我が身を忘れているという事情によるということがあるのみです。


長い間、すぐれた君主と賢い大臣が苦難をともにしてきたのに、泰平の世はともにすることができない事例があるのも、苦難や試練の間はお互いに我が身を忘れて同じ極同士が反発し合うという決まり事をしばし消していたものが、次第に安全で安心できる状態になると、その本性をお互いに現すためと理解することができます。


ですので、人間の社会においては、小さな事柄で言えば家庭の中から、大きな事柄で言えば公共のコミュニケーションや友人同士の間柄に至るまで、人々の賢さや強さはかけ離れればかけ離れるほどますます親しみや愛情が深くなり、そうではない場合は反発し衝突することを免れません。


特に、その人々がグループを同じくする場合は衝突も著しいもので、学者と学者、政治家と政治家、軍人と軍人、僧侶と僧侶、それぞれその職業が同じでその力量が同程度の人が、お互いに反目して利益もないことまで他を攻撃することは、よくあることです。
それに対して、学者と政治家が接したり、軍人と僧侶が交際すれば、とても穏やかな様子であることは、職業の上においても同じ極は反発し合い、異なる極は引き合うという法則を示しているものでしょう。


ですので、社会において広まっているさまざまな人物評価の話を聞いても、きちんとその根拠を吟味し、その人のグループや職業が同じか違うかを明らかにし、そうして後に判断を下すべきです。
俗に言うところの「商売敵」という言葉に現れる人間の感情の微妙なあたりまで、想像力や判断の働きをしっかりと行うということです。


以上、記してきたことがはたしてそのとおりであるならば、世の中の経済的な貧富を平等にし、地位の高低を同じようにし、賢さや智恵の程度を同じくして、男女の間を同じ権利や権力とするような、あらゆる平均論は、経済・哲学・教育の目的として知識人や学者が専ら努力していることではありますが、今日なおまだ十分にその目的を達成していないことこそ幸いかもしれません。
そもそもの目的はとても立派な良いことですが、この世界の人間の心や感情のありかたを今のままにしておいて、すべてのことを平均の境遇にすることがあるならば、その平均はしばしば衝突のきっかけになるだけのことでしょう。
現代文明の人の心はまだ平等で公平な心を得ていません。
どうしてその境遇を平均にすることができるでしょうか。
知識や学者は、このことに注意し配慮すべきです。