リンカーンの器の大きさ

「器が大きい人」ってどんな人?
http://www.j-cast.com/mono/bookwatch/2013/01/25162812.html


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■「どうやって罰を与えるか」ではなく「どうやって許すか」
 生きていれば、人から騙されたり、裏切られたりということもあります。そんな時にどう振る舞うかにも、その人の器が現れるようです。
 戦国時代の武将、豊臣秀吉のエピソードにこんなものがあります。
 ある時、秀吉が飼っていた鶴が逃げ出すという事件がありました。当然、鶴の世話をしていた人は打ち首か切腹を言い渡されることを覚悟していました。そこに秀吉がやってきて「鶴は外国まで飛んで逃げたのか?」と尋ねました。それに対して「飼っていた鶴だから外国までは飛んで行けないと思います」と答えると、秀吉は「日本にいるならうちにいるのと同じだ」と言い、鶴を逃がしたことへの罰を与えるようなことはしなかったのだそうです。
 秀吉の器の大きさがよくわかるエピソードですが、自分が受けた仕打ちに対して「どう罰を与えようか」ではなく「どう許そうか」と考える態度は私たちにとっても学ぶところがありそうです。
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秀吉のこのエピソードは知らなかった。
秀吉にもそんな一面も、少なくとも天下人になってすぐぐらいの時まではあったのかもしれない。


その一方で、だんだんとおごりたかぶって、千利休豊臣秀次を許さずに死に追いやるような人間にも晩年はなってしまったところが、人間の一生の難しさかもしれない。


リンカーンの場合、秀吉と違って途中で暗殺されてしまったけれど、最後まで許しを訴え続けた。
死の直前の、第二次大統領就任演説では、相手を裁くことをやめ、許しと寛容を説き、以下のように結んでいる。


With malice toward none, with charity for all, with firmness in the right as God gives us to see the right, let us strive on to finish the work we are in, to bind up the nation's wounds, to care for him who shall have borne the battle and for his widow and his orphan, to do all which may achieve and cherish a just and lasting peace among ourselves and with all nations.


「誰にも悪意を持たず、すべての人に慈悲を持ち、神が私たちに見せ給う正義を確信し、私たちがいま従事している仕事を、成し遂げるために努力しよう。
この国の傷に手当をし、この戦いの義務を果たした人々や、そのために戦死した人々の妻や子の世話をすることを。
そして、私たちとすべての国々との間に正義とずっと続く平和を実現し育むために、すべてのことを行うということを。」


南北戦争のあの激しい憎悪と悪意のさ中にあり、自分自身がその憎悪の的となったのに、このような言葉を述べることができたリンカーンの精神の深みと強さには驚かざるを得ない。


もちろん、リンカーンは中途で凶弾に倒れたので、長生きした秀吉とはその点異なっていて、可能性としてはもっと長生きすれば秀吉のようにおかしくなったという仮定も成り立たないわけではないが、たぶんリンカーンの場合は秀吉と異なり、ずっとこのような精神で生きたような気もする。


べつにアメリカが良くて日本がそれに劣っているというつもりはないが、安倍さんも年頭所感で民主党政権の悪口を言うのではなく、リンカーンぐらいの言葉を述べてくれたら良かったのにと思う。
万事大国は器が大きく、小国は器が小さいということだろうか。


もっとも、日本においても、過去に偉大な和解を成し遂げた事例が、坂本龍馬等々多々あるので、国の大小は器の大小と本当は関係ないのだろう。


馬鹿馬鹿しい党派対立ではなく、和解や許しが、なんとか今の日本でも少しは実現すればいいのだけれど。