現代語私訳『福翁百話』 第十四章 「最高の道徳的理想を想像して、そこに到達しようと努力すること」

現代語私訳『福翁百話』 第十四章 「最高の道徳的理想を想像して、そこに到達しようと努力すること」




人間の想像力は限りないものであり、それに対して実際に人間が実行できる範囲はとても小さなものです。


駕籠に乗って山道を行くのは大変な忍耐が必要なので、その時は、平坦な道を人力車で行くならばどれだけ楽だろうと思うものです。
しかし、実際に人力車に乗ってみれば、遅々として進まない気がするものです。


ですので、駕籠や人力車よりも何倍も速い汽車という交通手段を選択するならば、もう不平不満はないはずなのですが、では実際にそうかというと、決してそうではありません。


汽車の速度は、一時間に三十二キロは遅い方ですが、時速が六十四キロや九十六キロになっても相変わらず満足することはできません。


すでに時速が九十六キロぐらいになったならば百二十キロを思い、あげくのはてには百六十キロ、二百十キロ、とますます速さを求め、ますます遅さを感じるのは、人間の心によくありがちなことです。
もし、飛行船を自由に操って一日に何千キロを飛行したとしても、これで完全な速さと思う人はいないことでしょう。


つまり、想像力が働くということはそのようなもので、人間の想像は宇宙すら網羅して到達しないところはなく、世界の歴史が始まって以来今日に至るまで、いまだかつて満足したことがないものです。


大金持ちがたくさん財産を集めてますます財産を集めようとし、英雄豪傑が巨大な領土を持っていてもますます他国を征服しようと遠征を志すのは、日ごろの想像力に照らした時に自分がいま持っているものに不足を感じるからです。


物質的なものにおいてすらそうだとすれば、ましてや物質ではない精神や道徳の世界においても、同様でないことはありえません。


善いことを善いことだとし、悪いことを悪いことだとする心は、それぞれの人の心に存在していることです。
しかし、その人の賢さや愚かさによって、善いことや悪いことへの想像力の働きの範囲に、深さと浅さの違いがあることは避けられないものです。


単純な思考の持ち主の、道理を弁えない男性たちや、道理に暗い女性たちは、目の前の簡単に見えることだけを見て、すぐに善悪を判断し、小さな善を善だと考え、小さな悪を悪だと考え、思考の範囲が狭いだけでなく、ひどい場合には善悪の判断を間違えることさえないわけではありません。


しかし、大きな人物や立派な人物はそうではありません。
自分から実践して善いことを行い、悪いことを避けるだけでなく、さらにその上に、かりにも人間である者ならば心に起こすべき善いことや善悪の基準を想像して、善いことを自他に勧め、悪いことを自他に警告し、そのことによってより気高く立派な生き方に進もうと工夫します。
さらには、自分だけの想像力では不足しているので、歴史上の先人たちの本を読み、同時代のすぐれた人々の話を聞いて工夫します。
これは、つまり、本や先生や友人の存在が、人間の進歩工夫にとって必要だからです。


また、そうした本の中でも、特に聖書や仏教の経典などと呼ばれるものは、遠い昔の宗教の開祖や聖人や賢人たちの言葉を記したもので、こうした人々は言うまでもなく並外れてすぐれた智慧ある人々ですので、それらの人の想像力の到達した範囲もまたとても気高く立派で広く大きなものであり、のちの時代の人から見る時には、それらの人々を最高の道徳的理想だと言わざるを得ません。


仏陀や、孔子、キリストのような人々は、どれも人間の想像できる道徳的理想の頂点に到達した存在であり、さらにその立派な生き方や実践もその道徳的理想と同様であり、なんの不安なところもありません。
孔子が、七十歳になってから心の趣くままに生きても道徳的な法則にすべてかなっていた、と言われることは、つまりこのような道徳的理想の最高の境地です。
仏陀やキリストは、このような道徳的理想の最高の想像を、仏国土・浄土や、神の国・神の道などと呼び、もれなくすべての人々を教え、感化を与え、この道徳的理想に導こうと努めました。


また、その教えや感化を与える中で、さまざまな不思議なことを為したという話も多くのこっており、今の時代から見れば信じることができないようなこともありますが、ただそれらのことは凡庸で通俗的な人々に教えを説くための巧みな手段やたとえ話というだけのことであって、本来の目的は並外れてすぐれた人々や智慧ある人々が道徳的理想を想像し描き出し、そして自分自身がその道徳的理想を実践した完全なる境地に向けて、人々を進めさせようとしただけのことです。


ですので、私たちが今、自分の道徳に努力して、家庭生活や社会生活の方法に誤りがないようにするためには、まず自分自身ができるだけの善いことを行うのとともに、さらに想像力を働かせて善いことの中でも最高に善いことを思い描き、その道徳的理想に到達しようと努力する以外は、他に名案はないようです。


ひとつの善いことを行ったらさらにひとつの善いことを行い、少しずつ将来を希望し、際限がないその様子は、人力車に乗っていたら汽車を想像し、すでに汽車に乗ったらなお我慢できないと思ってさらにその上を求めるのと同じです。


道徳的理想を求めて心に道徳的理想をはっきりと認識し、省みて自分自身の実践の状態はどうかということを観察すれば、想像力がますます高くなるにつれて、自分の道徳的な実践がますます不十分だと感じることは、ちょうど生物学や健康栄養学の要点を知れば自分自身の不養生に気付くのと同じで、自分で道徳に気を付けないようにしたいと思ってもできないことです。


以上のことはつまり、私が道徳において最も大事なこととして今日まで守ってきたことです。


ですが、そうは言っても、人間には生まれつき賢い人もいれば愚かな人もいますし、教育や人との縁における恵まれ方や境遇やレベルの違いもあります。
ですので、このように、自分自身で道徳的理想を想像して、自分から道徳的理想に到達しようと努力するということは、社会の中でも上等な男性や女性であってはじめて実行できる修行です。


それほどのレベルではない人々においては、この移り変わりの激しい世界においては、身分の上下や金銭的な貧富には関係なく、ほとんど真っ暗に愚かな男性と女性ばかりであり、自分で最高の道徳的理想を想像するようなことは到底できないことです。
ですので、昔のこの上なくすぐれて立派な人々や賢い人々が想像し、そして実行した道徳的な教えを聴き、黙ってそれに従うという方法が一つあるだけです。
これが、つまり、この世の中には宗教が必要であるという理由です。