現代語私訳『福翁百話』 第十五章 「不思議な話や怪談は必ずしもとがめる必要はありません」
びくびくした心には幽霊が見えると言います。
少年少女が遊び半分で順番に怪談を語りあえば、その場にあるものが皆妖怪のように見えてきて、窓に当る風の音も幽霊の叫び声のように聞こえてくるものです。
また、骨董品を愛する人が、古いひとかけらの瓦を得てとても喜び、これは秦の始皇帝の宮殿・阿房宮の瓦だ、あるいは三国志の魏の曹操の宮殿・銅雀台の瓦だ、と自分で鑑定して自分で信じ込み、他の人に語って他の人も信じれば、しまいには歴史ある瓦として名高いものになり、徐々に年月が経って子どもや孫の代と伝えていくうちに、本物であることは疑いない貴重な品となることもあります。
ですので、私が個人的に思うことですが、今の世の中の知識人たちがこの世にある宗教を非難して、特に宗教の中の不思議な話を攻撃して、ひどい虚偽だとして、たとえ宗教家であっても嘘を嘘だと知らないものはいないはずなのに、嘘だと知って嘘を説くのは図々しい、あるいは嘘だと知らずに信じているのは愚かだと言って、宗教の説くすべてのことをしりぞけようとする人は多いものですが、私が観察するには、それらの宗教家は必ずしも図々しいわけではなくて、その宗教への信仰心がとても篤いために、場合によっては本当に不思議な現象を見る場合もあるのでしょう。
びくびくした心には幽霊が見えると言うのであれば、篤い信仰心には不思議な現象が見えるに違いありません。
宗教家が自分で過去に不思議な現象を自分の耳で聞き、眼で見て、心に信じ、さらに他の人に語って他の人もそのことを信じ、さらに他の人に伝わって社会に広まり、後の時代にのこっていく時は、不思議な現象はしまいにはあやしげなことではなく、ただ神秘的な奇跡だと尊ばれ信じられるまでになることでしょう。
べつに非難する必要のないことです。
あるいは、ある宗派を開いたある人物は、往生の時に紫色の雲がたなびいたのを人々が目撃したと言い、あるいはある人物は神を直接見ただとか、如来に遇って親しく教えを授かった、と言うようなことは、普通の一般的な理屈から言えばただ一笑に付すべきことのようではあります。
しかし、今の時代の人も、囲碁や将棋に熱中している人が睡眠中の夢ですばらしい一手を思いつくという例もあります。
また、詩人が夢の中ですばらしい詩句を得て、翌朝目が覚めてから自分で驚くという事例も少なくありません。
現に私自身、文章を書くに際して、深夜執筆に疲れて机の上で居眠りしていたら、ふと自分が書こうとする文章の最も重要な部分を思いついて、一人自分でうれしくて拍手して快哉を叫ぶこともありました。
ただ、私は自分自身を堅く信じていますので、この体験を霊夢や神託だとするような突拍子もないことをしなかっただけです。
このようなわけで、昔の時代の宗教の開祖や宗派を開いた人物たちは、想像力は最も高みに達し、信仰心は最も篤く、ひたむきな思いはほとんど盲信というべき境地に到達していたわけで、場合によっては本当に天の言葉も聞え、神などが見えたのでしょう。
空想が極まれば事実も空想にあわせて生み出されると言うべきかもしれません。
ましてや、そうした神秘的な不思議な超常現象の話は、人から人に伝わるうちに枝葉が生じ尾ひれがつくものです。
ましてや、人と人とのコミュニケーション技術が未発達だった時代の世界で、何百年も経つ場合においては、言うまでもありません。
不思議なことはますます不思議で、突拍子もないことはますます突拍子もないことになるものです。
決して、そうした話をする人々が図々しいわけではありません。
この世界の後の時代の人が、それらの不思議な話を疑わずに、凡庸で通俗的な人々を教えて良い影響を与えるために用いるのは、少しも問題がないだけでなく、人を導くためのとても巧みで強力な方法手段だとみなすべきです。