大切なことは隔離ではなく適切な知識

宗教団体の勧誘対象が低年齢化 学校帰りの中高生を飲食店で
http://www.news-postseven.com/archives/20130303_171344.html



新興宗教による勧誘への警戒を呼びかけることも、それはそれで大切なことかもしれない。


新興宗教を若年層への勧誘で批判することも、金銭等が絡むならば、それはそれで妥当だし、大切なことだろう。


しかし、問題は、中高生であろうと、人間は場合によっては、宗教的な関心や必要を持つということだ。


中高生の間は勉強や部活だけでよく、宗教などは必要ない、と大人が決めてかかっても、そうはならない中高生も山のようにいるだろう。


それぞれの年代で、それぞれの実存的な要求や必要が、人それぞれにあるものである。


思い出せば、今は仏教徒の私は、なぜか中学生の頃、聖書に心惹かれて、旧約と新約をすべて読破した。
岩波文庫コーランも中学の時にすべて読破した。
あの頃は、どういうわけか、一神教にやけに心ひかれたものである。


といって、何かの宗教団体に入る気はしなかった。


自分で探求し、原典にもとづいて検討できれば、それで良かったからである。


自分の場合は、べつにクリスチャンでもない浄土真宗の家なのに、なぜか聖書が家にあって、読もうと思えば簡単に手にとって読めたし、コーラン岩波文庫で廉価に書店で手に入ったから、気軽にそれらを読むことができ、考えることができたのだと思う。


大切なことは、中高生を宗教から隔離することではなく、自分なりにその原典や歴史に触れさせ、自分の頭で考えさせることではないかと思う。


日本人はしばしば無宗教などと言うが、そんなことはないと思う。
世の中に新宗教の団体はたくさんあるし、旧来の神社仏閣も多くの人でいつもにぎわっている。
はっきりとした自覚がないだけのことではないかと思う。
そして、自覚もなく、知識もない場合が、一番妙な宗教に簡単にだまされる土壌になるのではないかと思う。


人が生き抜くのは、それぞれに大変なことである。
特に、なんらかの不条理に出あった場合は、なおのことそのように感じる。
大切なことは、中高生の頃からその人の探究心に応じて、適切な知識や理性の光に照らしての検討ができる環境を、宗教に関しても整えていくことだろう。


いくつかの世界的な古典を読むように促すぐらいの大人が周囲にいれば、簡単には妙な新宗教にはだまされない青年に育つと思う。