善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第四十八節
『仏説観仏三昧海経』「密行品」第十二巻の第十段に以下のような意味のことが説かれています。
「釈尊は、アーナンダ尊者にお告げになられました。「未来の人々で、この念仏への集中を得たいと思う者や、仏のさまざまな特徴を観想したいと思う者や、さまざまな仏が目の前に立つことを見る瞑想への集中を得たいと思う者がいれば、こう教えるべきです。
身体・言葉・心について緻密になり、間違った生活をしないようにしなさい。心をおごりたかぶらせてはなりません。もし間違った生活や傲慢な心を起こせば、知るべきです、その人は増上慢(おごりたかぶった人)です。仏の教えを破壊し、多くの人々に善くない心を起こさせます。仏の教団の調和を乱し、ことさら違いを生じさせて多くの人を惑わします。これは悪魔の仲間です。このような悪人は念仏するとしても、その甘露の味わいを得ることはできません。この人は生まれながらに傲慢なので、その身は常に卑しく身分や地位の低い家に生れます。貧しく衰えて、はかりしれない悪業によって自分の生活を飾り立てます。このようなさまざまな多くの悪い事に対しては、自分で自分を守って、ずっと起すことがないようにすべきです。もしこのような間違った生活の業を興すならば、この間違った生活の業は、たとえば狂った象が蓮の池を破壊するように、この間違った生活の業もそのように善根を破壊して腐らせてしまうことでしょう。」と。
釈尊はアーナンダ尊者にお告げになられました。
「念仏する者は、ぜひとも自分を守って、放逸になることがないようにすべきです。念仏に集中する人がもし自らを守らず、傲慢な心を起こすならば、間違った生活の悪い風習や驕慢の炎が吹いてきて、善いことを焼き滅ぼしてしまうことでしょう。善いこととは、いわゆるあらゆるはかりしれない数のサマーディ瞑想(禅定)や、さまざまな念仏の教えであり、心の想いからそれらは生じます。これらを功徳蔵(功徳のつまった蔵)と呼びます。」と。
釈尊は、アーナンダ尊者にお告げになられました。「この経典を「想いをかけて動じることがない」と呼びます。このように受けとめ、保つべきです。また「仏の白毫の相を観想する」と呼びます。このように受けとめ、保つべきです。また「如来の御身体を上から下に、あるいは下から上に観想する」と呼び、また「ひとつひとつの毛孔に如来の御身体を見る」と呼び、また「如来の御身体の三十二の特徴と八十の特徴とさまざまな智慧の光明を観想する」と呼び、また「海のような仏を観想することに集中」と呼び、また「念仏に集中する門」と呼び、また「さまざまな仏が妙なる花々で身体を荘厳している」と呼びます。あなたはよく受けて保ち、慎んで忘れることがないようにしなさい」と。