現代語私訳『福翁百話』 第三十三章 「実学の必要」

現代語私訳『福翁百話』 第三十三章 「実学の必要」



勢いよく変化していくこの社会の現実を観察すると、学者・知識人の生活は必ずしも安楽なものではなく、そんなに学問などしていない人の中に、かえって大いに財産をつくり成功する人がいるだけでなく、学問をしたばっかりに人間社会の心得を忘れてついに貧困に苦しむ人の事例さえ多くあります。
つまり、学問と現実の実践は両立しないものであり、人間が生きていく上で学問の知識が増えるのは貧乏の始まりだとして、全面的に学問や教育が無益だと主張する人もいます。


そうした主張は、たしかに活発な元気のある意見のようには聞こえますし、また実際にそうした事実の事例もないわけではないのですが、こうした類の主張が生じる根本的な原因を考察しますと、千数百年の間、わが日本国に流行し浸透してきた漢学(儒教を中心とした中国の学問)が現実に疎いためであり、そのために今や学問が世の中の人の嫌う対象となってしまい、単に学問という名前を聞けばいつもの空理空論だろうと思い込んで、はじめからそれぞれの学問の意義を問わないがためです。


この理由をまず第一の理由として、また別の理由もあります。
私が長年の間主張してきたことは、ひとえに実学であって古風な漢学ではありません。
若い時から苦学して勉強して、学業が成就した後には、その勉強によって得た知識や経験を実際に実践して、自分が独立して生活するための生活費を稼ぎ、精神と身体を安楽にすることができ、そうした事柄によって人生の目的を達成しようと願うものであり、これがつまり実学の本領なのですが、どうしたことか、通俗的で凡庸な人々の心を満足させるには実学は十分ではないことは、やむをえない様子です。


どういうことかというと、現代文明の実学というものは、本当に真実であるとはいっても、ただ物事の真理や原則を明らかにしてその応用方法を説き明かすだけのことです。


たとえ現実に実践すると言っても、学校の中にいて人間社会の実際の物事に直面しない間は、俗に言うところの「畳の上での水泳の訓練」「畑水練」の名称を避けることができないものです。


しかし、そうは言っても、人間の社会の事柄に学問が大切なことは、たとえて言うならば、囲碁や将棋に最善の打ち方・定石があるような、あるいは槍や剣術に形(かた)があるようなものです。
あらゆる活動をする際にも、その根本となる要点は決して忘れないようにすべきです。


若い人々や学者たちが、文明の学問を教える学校を卒業し、あわただしく社会に出てあわただしく人間社会の事柄に直面していく姿は、囲碁や将棋の定石を学んだり剣道の形を稽古した人が、はじめて実際の試合を行うのと同じで、さまざまな変化の中で、虚々実々の駆け引きに余裕がなくなり、簡単に勝つことはできません。
場合によっては、素人と戦って失敗して負けることも多いので、こうした事例を見て、通俗的で凡庸な人は評価を下して、学者は実際の物事の役に立たない、学問など知らない人こそが物事の駆け引きには上手である、店を預ける番頭にするには丁稚奉公から出世した人間を用いるのが一番良い、学校出身の学問をしてきた人は商売の妨げになる、など、さまざまな苦情を起すものです。
しかし、さらにもっと進んで考えるならば、囲碁や将棋の定石や、剣道や槍の形は、これらの芸道の根本であり、実際の実践に直面して縦横無尽の活動をする際に、一つの根本となるものです。


ですので、この根本を知らない人は、いわゆる不作法な人であり、とうてい達人の段階までは進むことができないことは、今も昔も間違いないことです。


ですので、今、ビジネスや工業などにおける現実の実践において、学問を不必要で役に立たないなどと言う人は、物事の原則を知らない不作法者の考え方であり、自分自身が不作法者だから他の人まで不作法者にしようというだけの人に過ぎません。


現代文明における事業は、徹頭徹尾、学問的な数学や科学に基づいているものであり、少しも数学や科学の対象範囲外に逃げることができないものです。
不作法者がごまかすことができるものではありません。


今の世の中の実業家などと自称しているビジネスマンたちが、学問や知識がなくても、自分の家の仕事をよく維持して、場合によっては大いに家を盛んにする人さえいるのは、ただ数百年の間この社会に浸透してきた学問を軽視する風潮の余波によって、幸運にもそうであるというだけのことです。


現代文明の流れは非常に速いものです。
不作法者の囲碁や剣道は、結局失敗するもので、家を滅ぼしてしまうことは遠い将来のことではありません。
これからの文明の学問を学ぶ人々は、通俗的で凡庸な人々の言葉には耳を傾けず、速やかに独り学問し進歩していくべきです。