現代語私訳『福翁百話』 第三十二章 「人間には学問・科学への理解や考えが必要です」

現代語私訳『福翁百話』 第三十二章 「人間には学問・科学への理解や考えが必要です」



文明は学問や科学の発達と歩みを共にしています。
学問によって発見された真理や原則を、人間の社会において応用することが、ますます広い領域となり、ますます緻密になることを指して、文明の進歩の姿と呼び、その学問や科学を知っている人を文明の人と呼びます。


今、西洋諸国を文明と呼び、東洋に対してそうではないと言うのは、他のことではなく、ただ西洋と東洋とで学問や科学が行われている程度が同じではないからです。


近年は、わが日本国もだんだんと学問が流行するようになり、さまざまな分野の専門の学者の数も多くなっています。
このようなさまざまな分野の専門の学者こそ、国の本当の宝であり、国家国民の利益の本当の源ですが、単に専門の学者だけが現れて、その学問や科学を実際に応用する社会の人々がいなければ、その学問も実際の役に立ちません。


医者が、現代文明の医学を研究して大いに発見や会得することがあっても、周囲の社会の人々に学問や科学についてのきちんとした理解や考えが存在せず、その発見や会得したことを信用しないのであれば、せっかくの医学も役に立たないものになってしまいますが、専門の学者だけがいるのはそのようなものです。


これがつまり、その国の一般の人々にこそ学問が必要である理由です。
初等教育中等教育を奨励する必要があることも、この理由があるからだと理解すべきです。


文明国にとって学問が不可欠であることは、社会にとって宗教が不可欠であることと同様です。
学問を専門的に学んで、学問を職業として生活している学者は、ある意味、僧侶と同じようなものです。
その学者の話を聞いて、もしくは自ら学問して、学問や科学のおおまかなことを理解する人は、宗教における信者のようなものです。


学問を職業にする人と、その言うことを信じて学問のおおまかなことを理解する人とは、もちろん違いはあります。
しかし、専門家が専門として研究する他の事柄においても、この人間社会のあらゆる物事や出来事はすべて、一瞬一刻も学問や科学の対象範囲外に存在するものはほとんど存在しないわけです。
ろくな学問や知識がない状態でこの世を生きているとしたら、自分でも自覚しないうちにたまたま学問や科学に沿って生きているか、あるいは偶然になんとか助かっていると言えるだけのことです。


家政婦が御飯を炊いて、使用人が水を汲んで薪を割るのも、自然と学問や科学の原理原則に沿って働いているわけで、科学の道理に反する時は必ず失敗します。
ましてや、もっと難しい作業や仕事になれば、科学の原則に沿わなければならないことは言うまでもありません。
豆腐屋、酒屋、あるいは染色や服飾の仕事などをはじめとして、時計屋や、インテリアやデザインの仕事はもちろんのこと、建築や塗装や金属加工業や石材加工業など、あらゆる工芸や農業に至るまで、どれも間違いなく学問と関わりのある事柄ですので、学問や科学の応用は私たちの身近な身の周りにあると自覚して、何事もうかうかと見過ごさないようにすべきです。


もちろん、その分野の専門の学者でなければ、何かを見てすぐに自分で発明したり製品をつくるようなことはできないことかもしれませんが、大まかな道理は理解すべきです。
時計を見ても、その針が動いて時間を指すのは、どのような仕組みでそうなっているのか、どのような物質や部品をどのように利用して思うとおりに動かしているのかと、その部品に使われている物質の性質を知り、その強弱を知り、どのような原則をどのように応用しているかを理解することは、専門以外の素人にとってもとても大切なことです。


この移り変わりの激しい、しかもあまり学問もない社会を観察するならば、蒸気船や蒸気機関車に乗りながら、その船や汽車が動く理由を理解せず、電話や電信を自分で使用し、ガスや電気を使って暗い夜に部屋を明るくし、真夏の暑い盛りに製氷機を使って食事をしながら、ただ便利で不思議だと言うばかりで、その理由や科学上の仕組みを知りたいと思う人は非常に少ないようです。


大体、こうしたことを列挙するならば際限もない状態で、単に貧しくて教育程度も高くない人々のみがそうではなく、自分で文明の紳士だと自称して何かにつけてそれなりの理屈を言う人々が、しばしば文明の機器や道具に対する科学的な理解という点では漠然としている人が多いものです。


結局、そうした人々の考えは、学問はその分野の専門の学者の領域であって、他の人々があずかり知ることではないということで、わざと気にかけずにいるのでしょう。
しかし、なんとしたことか、そうした日常からの無関心や無知識は、自分に直接振りかかてくるもので、病気になった時に医者や治療方法を選択する術を知らず、治るはずの病気を治すことができず無駄に苦しむ人もいれば、日常における健康法をうさんくさい人から聞いてその方法を間違う人も多くいます。


もしくは、この世間の事情や人との付き合いで抜け目がないと言われている人が、何らかの新しい事業を起こす会社などにおいて、人を使い、あるいは人に使われる際に、学問や科学へのきちんとした考えがないので、その日ごろの抜け目ない賢さにもかかわらず、あらゆる物事に対して機転がきかず反応が鈍く、少しも役に立たず、ついに人から軽蔑されて窓際に追いやられてひっそりとしているという事例も多くあります。


ですので、学問が社会にとって必要だと言う際、専門的な学問が必要なことは今更言うまでもないことですが、この世界の広さから言えば、専門分野の学者だけでは十分にカバーすることはできないので、専門的な研究は持って生まれた才能のある人に任せて専門的に勉強させることとして、その他の大多数の若くて意気盛んな人たちは、その環境や地位に関係なく、経済的な貧富や家柄の上下に関係なく、一般的なひととおりの教育は、学問や科学へのきちんとした理解を育み、それらを発達させるためと心得て、決して怠らずに努力すべきです。