現代語私訳『福翁百話』 第六十三章 「空想は現実の行為のもとです」

現代語私訳『福翁百話』 第六十三章 「空想は現実の行為のもとです」




心の中で思うことは口に出して言うべきではありません。
口で言うことは、必ずしも実際に行うことができるわけではありません。


学者や知識人が深夜にひとりで寂しい灯りの下に座り、心を馳せて人間の世界の姿を観察するならば、その姿に満足できないだけでなく、ただ人間世界の妄想・漫然たる様子・狂気・愚かさに、驚く以外ないことでしょう。


理詰めでとことんまで思考するならば、今の世界の中にさまざまな国家があってそれぞれに政府を設立しているようなことは、いったい何のためなのでしょうか。
世界各国が、利益をめぐって争っては、しまいにはお互いに殺し合っています。
国家の法律で国民を保護すると言いながら、国民を貧しい人々と豊かな人々に分けて、苦しみと楽しみを全然異なるようにさせているような状態は、全く理解することのできないことです。
また、宗教といい、結婚制度といい、どこに真理が存在しているだろうかと自問自答しながら、どんどん深いところまで真理を求め、徐々に微妙なところまで到達する時には、世界の人類と呼ばれる存在はすべて無知で尊いところのない単なる動物で、苦しみと楽しみ、美しいものと醜い物の区別も本当には知らず、ただ無駄に生れて無駄に動き回り、結局無駄に死んで消えていくものだという結論に終ることでしょう。


考え疲れて眠りにつき、さて翌朝となって前の日の夜に空想した様子を詳しく人に語るでしょうか。
決して語るべきではありません。
話してその意味を理解する人はいませんし、かえって誤解して災いのきっかけとなる場合が多いことでしょう。
「心に思うことは口に出して言うべきではありません」とは、つまりこのことです。


あるいは、親友や仲間に対して場合によってはできる範囲で、とりとめもないおしゃべりの中で少しだけその話を洩らすことはあるかもしれませんが、言う人も聞く人も実際に行う勇気がないだけでなく、その人の実際の行動は往々にして正反対である場合も多いものです。
口に出して言ったことでも、必ずしも現実に行うことができるわけではありません。


では、知識人や学者の空想は全く無益なものかというと、決してそうではありません。
空想はつまり実際の行動のもとであり、人間の社会の進歩はすべて空想やフィクションから現実を生み出したものです。


身近なそのひとつの事例を示しましょう。
明治維新の初めの頃、廃藩置県という大きな出来事がありました。
その実際の遂行はたしかに明治の最初の頃ですが、門閥が権力をほしいままにする状態は嫌うべきで、無駄に三百もの大名諸侯を多額のお金を使って養うのは愚かなことだという思想は、まだ大名が栄耀栄華だった時代からすでに知識人や志ある人たちの頭脳の中で起っており、実現するというこれといった見込みはなかったにもかかわらず、ともかく日本の社会の根底からひっくり返したいと、深く心に思っている人がいて、稀にことのついでに口に出して言うこともあったわけです。
これがつまり、廃藩置県の実行を容易なこととさせたもともとの原因でしょう。


こうした類のことを数えあれば枚挙にいとまがないものです。
明治の社会において文明の盛んな事柄は多いものですが、その原因と経緯を尋ねるならば、すべてみな誰かの人の空想を現実にしたものであり、これから先の改革や革新もまた必ず空想を現実にするという道によらないものはありません。
これは少しも疑いようのないことですので、文明を学ぶ知識人や学者としてこの社会で生きていくための方法は、常に凡庸で通俗的な人々が思いもよらないところまで心を馳せて、さまざまな無限の想像を活発に働かせ、何百何千という新しいアイデアを考え、それを心の中に蓄え、チャンスを見つけては言葉で表現し、実際に実行するべきです。
その様子は、たとえるならば、新しくしつらえた楽器を懐に入れて簡単には音を出さず、周囲の状況をよく見て、やっとめぐってきたチャンスをうかがって、思いっきり音をだし、世の中の人々の耳目を驚かせるようなものです。
これほどまでに注意し、これほどまでに活発で、はじめて思うことの万分の一を言い、言ったことの万分の一を行うことができるものです。
知識人や学者の人生や生活には、多くの苦労や試練があると言うべきです。