ものを言えない人を弁護するのが知恵


箴言を読んでいたら、こんな箇所があった。


Speak up for those who cannot speak for themselves,
for the rights of all who are destitute.
(Proverbs 31.8)


あなたの口を開いて弁護せよ
ものを言えない人を
犠牲になっている人の訴えを。
箴言 第三十一章 第八節)


ペタフ・ピーハ・レイレム・エル・ディン・コル・ベネー・ハローフ



箴言では、「ものを言えない人」に代わってその声を代弁することが、知恵のある人、つまり当時における「知識人」の役割と考えられている。
そのことに、時代を超えた真理を感じて、深い感銘を受けた。


この箴言の言葉を読んで、私は昔読んだエドワード・サイードの『知識人とは何か』の中の言葉を思い出した。


「知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択しかない。
すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象(レプリゼント)されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。」


イードは紛れもなく、後者ではなく前者の道、遡れば箴言に連なる精神で現代を生きた人だった。


また、私にはもう一つ、この箴言を読んで思い出さずにはいられない一節がある。


それは、『私が売られた日』という実際にあった黒人の奴隷市場での出来事を元に書かれた作品のあとがきで、著者のジュリアス・レスターが言っていた言葉である。


「歴史とはいつ、どこでなにがおこったかを説明するだけのものではありません。
そこには歴史に翻弄され、わたしたちがぼんやりとしか知らない過酷な運命を生きざるをえなかった人々の心の軌跡もまた含まれるべきでしょう。
わたしにとってこの本は、みずからの物語を語りえなかった人々の無念を晴らそうとする、もう一つのこころみなのです。」


この言葉には、本当に深い感銘を読んだ時に受けた。


歴史の上には、また同時代において、しばしば声をあげることのできない、その声が多くの人の耳には入らない、苦しんでいる人々がいる。
それらの人々の声をどこまで汲み取ることができるか。
それが本当の知恵ある人ということなのだろう。


中国の古典の『書経』にも、「不虐無告」(無告を虐げず)という言葉がある。
声なき人々のことを、「無告の民」というのは、ここから来ている。


洋の東西を問わず、知恵ある人とは、そういう生き方をするものだとさまざまな古典で、また現代においても、言われてきた。


にもかかわらず、今の日本はどうだろう。


湯浅誠さんのように、この道を身を以て生きている人々もたしかにいる。


が、大半はどうなのだろうか。
正社員は非正規雇用の人々を、自らの努力が足りないだけだと冷淡に見捨てる。
正規雇用の人々は、正社員の人々の特権の破壊を願う。
日々の生活に喘いでいる人々は、雇用や福祉の充実に目を向けるのではなく、生活保護を受けている人々に憎悪を向ける。
他の国々に比べてそれほど多いわけでもない公務員を減らすことばかり叫ぶ政治家が支持される。


今の日本の現実はこのようなものであり、その結果が、自民党の政権復帰であり、維新の会の躍進なのだろう。
かつての小泉ブームというのも、そのようなものだった。


そこに存在しないのは、想像力や本当の意味の知恵ではないだろうか。


箴言を読んでいると、そんなことが思われてならない。





「声をあげることができない、すべての危機に瀕している人々の正義のために、あなたの口を開きなさい。」
箴言第三十一章第八節) 

ヘブライ・英文の対訳を参照にしながら、自分で訳してみた。