現代語私訳『福翁百話』 第六十二章 「国家はひたすら前進するべきです」

現代語私訳『福翁百話』 第六十二章 「国家はひたすら前進するべきです」




文明がどれだけ進歩しているかの程度を計ろうとする時、その基準とするべきものは多くありますが、その中でも言論の自由の程度は、ちょうど学問や文化の進歩あるいは退歩の度合いを表すシグナルやサインと呼ぶことができるものです。
言論の自由への束縛が緩和されて、段々と自由に移行していくことは、まぎれもなく文明の進歩の証として観察すべきことです。


日本が開国して以来、今日に至るまで、国民の中に不平不満の声が痕跡もないほどなくなったわけではありません。
政治における圧制といい、昔からの習慣や因習による不自由といい、さまざまな束縛が数多くあります。
政治家も知識人も、仮にも文明の進歩をモットーにしてその先導役になろうと自ら自任している人々は、皆一生懸命、誠心誠意、圧政や因習をなくそうと努力し苦労しており、彼らがそうした努力をしていることは、社会にとって幸いなことと言えることでしょう。
また、現実にその苦労は無駄ではなく、人間の生活における自由の範囲は日々に広くなり増加しており、かつての封建社会の時代の不自由さとは大きく異なってきています。


文明の進歩を目指し努力している人々の熱心さから見れば、今日の状態もまだ不満足な部分が多いでしょうが、振り返って過ぎた歳月を顧み、幕末の開国から四十年が経つ間に、日本の国民の言論の世界においてどれぐらい自由が実現してきたかと、昔と今とを比較して詳細に観察するならば、私たちはただうっとりと夢の中に入るような感覚となることでしょう。


かつて、幕末における第一次長州征伐の頃(元治元年[1864年])、幕臣で神奈川の副奉行・組頭として勤務していた脇屋卯三郎という人物がいました。
彼は、長州に住んでいる親戚に手紙を送り、その手紙の中で少しだけ時事問題について述べて、「とにかく騒がしい時だから、どうかすぐれた君主や賢い補佐の臣下が世に現れて世の中を鎮めて欲しい」といったことを、ただ一言だけ手紙に書きました。
その手紙が、途中で奪われて、脇屋は長州に内通しているという容疑がかけられ、すぐに逮捕され切腹を命じられました。


また、それよりも前のことですが、幕府の通訳官だった堀達之助は、ロシアの軍艦が難破して伊豆地方に漂着した時、通訳のための公の任務としてその場所に出向きました。
そして、必要に応じて毎回書簡のやりとりをしているときに、届けられた書簡の中の一通の筆跡が見事だったので、その書簡を翻訳して用事を終えたのちに、しばらくの間その原文の手紙を自分の手元に留めて、アルファベットの手本としてアルファベットを書く練習をしていました。
そして、その様子をある人に見つけられて、堀達之助は公の文書を私有物にした、この様子では何らかの事柄をロシアと内通しているのではないか、と疑いがかけられ、すぐに牢屋に入ることが命じられ、五年間も監獄の中で苦しめさせられました。


その頃の日本は攘夷をモットーとしており、外国人は夷狄、もしくは異人と呼ばれて、西洋の学問をする学者は一種の悪魔や外道の扱いしか受けませんでした。
ですので、西洋の学問をする学者たちは、文明の考え方やモットーがとても面白いものであることを理解して、その道を学び、そして広めたいと思っていたのですが、周囲がすべて敵であり思うことを言うこともできず、たまに話に耳を傾けてくれる人がいてもほんの少し西洋の機械を使用したいなどという浅はかな考えの人がいるだけで、政治や社会における文明の議論に関しては、ほんのわずかな言葉も述べる方法がないものでした。


このように述べる私、福沢諭吉の身に起こった事例を語りましょう。
今を去ること四十数年前、私・諭吉が長崎に赴いて勉強した後、大阪の緒方洪庵先生のもとで蘭学を学びたいと思い中津藩の役所に願いを申し出た時、異国の学問を学ぶことは不都合だ、砲術ならば許可しよう、と内々の指示を受けました。
蘭学の医者の弟子となって鉄砲の稽古をするということこそ不都合なことだろうと思いましたが、西洋の学問のモットーなどを演説して藩の役所と争っても大変なことになるだけだと諦めて、すぐに内々の指示に従い、「私は大阪の緒方洪庵先生のもとに入門して砲術を勉強します」などといった願書を提出して、早々に中津藩を脱け出して駆け出したことがありました。


さて、緒方先生の適塾に入門してから、掲示されている塾の規則を見てみると、その第一条に、「学生が読書や研究をすることは当然のことだが、ただ原書を読むだけで、一ページたりとも勝手に翻訳することは許可しない。」と書いてありました。
西洋の学問をする世界の言論の自由は窒息するようなものだったと言えます。


以上のことは、昔の物語であり、それから明治維新という春がやって来て、あらゆることが自由になる世の中に変わりました。
しかし、そうであっても、国民の骨髄に染み透ってきた専制の時代のならわしや因習は、政治の上においても、その他の人間のさまざまな出来事の上においても、簡単には取り除くことができていません。


たとえば、一国の政治は、議会と行政とに区分され、司法は政府の外に独立し、時の政府といえども法律を恣意的に左右する権力はない、と言っても、大岡越前守の名裁判の講談話に耳が慣れている国民には、そうした政治制度上の権力分立論の意義を理解しません。


また、経済について、国家の貨幣に政府の証印をつけるのは、ただ金銀の性質やそのグラム数を証明するだけであり、政府の証印があるために貨幣の価値を元の金属の価値よりも高くしているわけではないと論じても、昔から通貨の流通は政府の威光のおかげと思い込んでいる国民には、西洋的な金本位制の経済の考え方は簡単には耳に入りません。


ましてや、国家の財政を見て、国民の拠出金と同じものだと論じるようなことは、とても理解することができません。
一国は政府の私有物であり、その私有地の民より取り上げた税金はつまり政府の私有のお金であり、奪うも与えるも自由自在であるそのお金を、国民の拠出金と同じだということは、根拠のない世迷言だと、かえって世の中の人々を怒らせてしまうほどのありさまです。


そうではありますが、明治になってからの歳月も、十年経ち、二十年経ち、今年は明治二十八年で、ここ数年の様子を見れば、政治も法律も経済も、ますます活発に議論され、ますます精密な議論や扱いとなり、その議論や理論を現実に実行して効果をあげ、社会において再び封建時代に戻したいというような夢を抱く者もいなくなりました。
稀にそんな人がいれば、無駄にその身の愚かさを表明して世の中に笑われるだけか、結局はその身を滅ぼすに至るだけのことです。


要するに、今の日本は本当に文明開化の日本であり、昔の時代を思い出せば、あらゆることが思っていた以上の状態に達して、ほんの少しも不満なことはないようだとも言えます。
しかし、そうではありますが、さてこの段階に至ってさらに言葉をあらためて大いに論じるべきことがあります。


というのは、私たち国民は、決して今の状態に満足すべきではないということです。


「足るを知る」という教えは、一個人の自分にとって適用すべき場合はありましょうが、国としては千年経っても万年経っても満足する日はないことでしょう。


多くを望み、多くを思い、ますます足るを知らず、満足せず、一心不乱に前進することこそ、国家を成り立たせるための根幹です。
ですので、もし過ぎ去った歳月を顧みて、長い年月の間にこの点からこの点までは到達したという事実を観察して見つけたならば、すぐにそれを将来に適用して、これからどれぐらいの年月を経れば、希望している地点まで到達することができるかの計算を簡単に得ることができるようになることでしょう。


手紙の中のたった一言の言葉によって切腹に追い込まれるという悲惨な災厄を引き起した残酷で無法な国家だった日本が、今のきちんとした法律を見る事ができるようになるまでにかかった歳月は、たったの三十年間ですので、これから先の三十年間の進歩もだいたい想像することができることでしょう。


政治について、経済について、そしてまたいわゆる忠義や孝行や道徳教育ということについて、一般的にこれらの問題について今の社会の空気や風潮において許されているわずかな言論の自由の範囲は、はたして完全に達していると言えるものでしょうか、そうでないでしょうか。
私は断じて満足していない者です。
たとえるならば、すでに過ぎ去った年月の間の進歩は、粗悪な金属だった日本を鍛え上げて役に立つ機械と為し、銅を変じて銀にしたようなものです。
ですので、これから同じだけの時間があれば、その機械をますます精巧なものにし、その銀を黄金にすることもたやすいことでしょう。


そして、この進歩や改革・革新の任務に当たる者は、これからの若い、文明を学ぶ知識人や学者たちです。
ですので、その責任は決して軽いものではありません。
無駄に昔の時代を慕ってなつかしむのはやめて、古い時代の人ばかり見ずに、あらゆる新しいアイデアを工夫すべきです。
そして、日々に新しく、日に日に新しく、自分たち自身が後世の模範となるような時代をつくり、後世の模範となる人物になろうと努力すべきです。