現代語私訳『福翁百話』 第五十章 「人間の運不運について」
精神論を主張する人々の言葉を聞くと、人間の地位の高低や貧富の差は智恵や道徳の反射として決まるもので、もし智恵を磨き道徳を修めれば成功や出世は必ずできると言います。
また、そうした人々は、経済の根本は、正直と節約と勤勉の三つであり、この三つが富を得るための道であり、この三つがあれば成功は間違いないと言います。
どれも立派な議論であり、そのとおりではあるのでしょうが、よくよくこの混濁した人間社会の現実の姿を観察するならば、必ずしもそうではなくて、経済的な豊かさや地位が高いことはともすれば智恵や道徳に伴っていませんし、正直や節約に努力しても財産をつくることができない場合もあり、どれだけ一生懸命働いて稼いでも貧乏な人もいるようです。
たとえ、上記の精神論の人々の議論に全く反対はしないとしても、人々の智恵や道徳とその経済的な豊かさや貧しさが正確に比例しているわけではないことは、事実として明らかなことでしょう。
理論的に正しい表面と現実の実際の側面とは、様子が異なっており、現実における展開が運よく理想論と一致すれば幸運、外れれば不運と言います。
たとえば、ここに大体同じぐらいのレベルの人が二人いて、それぞれビジネスを始めて、その動きや働きにそれほど優劣はないにもかかわらず、一方は億万長者となり、他方はその百分の一程度の富を得たとします。
たとえ、そのやり方に多少のうまい下手はあったとしても、百と一ほどの違いはないことは明らかなのに、長年の苦労の結果を見れば、その割合が離れ去ること以上のようなものでした。
このことを論じるならば、一方は幸運、他方は不運と言わざるを得ません。
隣の家の子どもは早くから成功して高い地位に出世し、自分は田舎でくすぶっている。
昔の同級生は社会の表舞台で活躍する者が多いのに、学生時代は最も目立っていた自分の名前を知る者は世の中にほとんどいない。
自然災害、流行り病、思わぬ火事、不慮の事故など、思いもかけずやってくる災難や困難は、到底人の力が及ぶところではないと諦めるとしても、同じ人間と人間とがともに人間の社会で暮しながら、一方は苦労してもその十分な報いを得ることができず、智恵や道徳を修めてもその甲斐がないとは、天の定めたことははたして人間にとって道理がないのではないかと、世の中に不平不満の声をあげ、その不平の心の熱が高まり続ける人も多くいます。
たしかにそうであっても仕方がない状況ではありますが、そもそもこうした不平の熱を高め続ける人は、今の現段階での文明を高く評価しすぎており、また天の定めたことははかりしれない広く深いものだということを知らない人です。
目をひらいてこの人間の世界を見れば、まだ文明の程度は幼稚なもので、人間の智恵のレベルの低さは驚くばかりです。
何にも見えていない人が何千何万といるばかりで、そしてまた自分自身もその何も見えていない人の一人であることを免れていません。
人間の出来事の九十%以上は感情のままのでたらめな判断に基づいていて、ほとんど理性のコントロールがきいていないものであり、理性に乏しいこの混濁した人間社会の真っ只中では、不公平や不条理は当然の定めであり、罪は社会のありかたや構成が不完全であることにあります。
ですので、智恵や道徳と比較して経済的な豊かさや地位の高低などの報いが正当なものではない場合、誰に対して怨みを述べるべきかと言えば、結局その相手は見つからず、ただ社会や人間の現段階での文明の程度の未熟さを責めることができるだけで、自分自身もまたこの人間の社会の一員であるために、少しでも不平不満を感じているならば、部分的な問題について怨みを抱くよりも、この不平不満や怨みを起す原因となったものを理解しようと求め分析し、社会全体が進歩することを求めてその進歩を助け成し遂げ、徐々にこの世から不条理や不公平の問題を減らしていくこと以外に良い手段はないことでしょう。
天の法則の決めたことは精密で堅固であるといっても、そのスケールはあまりにも広くはかりしれないもので、普通の人間の智恵をもってははかり知ることができないものです。
この人間社会のほんの一時の小さな智恵や道徳と、ほんの一時の小さな名誉や利益が、相互にぴったりと一致しないことがあったからといって、直ちにそのことによって天の道理の問題に帰結させて、天の道理があるかないかを議論するようなことは、まだ宇宙の広大さを知っておらず、評価を誤っている人だと言うのみです。