現代語私訳『福翁百話』 第四十三章 「慈善には二種類の区別があります」

現代語私訳『福翁百話』 第四十三章 「慈善には二種類の区別があります」




他の人の病気の苦しみや貧困の苦しみ、あるいは突然の災難を憐れんで、たとえば病気の人には薬を与えたり貧しい人には食べ物を与えたり、洪水や火事や飢饉などの被災者にはお金や物を与えたり、病院や福祉施設に寄付をするようなことは、すでに起こった災難を緩和するための手段です。


それに対して、お寺に寄付して布教活動を援助したり、学校に資本金を与えて教育を充実させ広めたり、あるいは道路や橋などの開通や修繕に募金するようなことにお金を使うことは、一般的に、不幸な人を見てその苦痛を救おうという主旨とは異なっています。


人間の社会を組織することにおいて、国民に宗教についての信心がなかったり、あるいは学問や教育がなければ、社会の安寧を維持して国民や国家の利益を盛んにする根拠がそもそもないことになってしまいますし、安寧の反対のような災禍も将来起こるかもしれない事態になってしまいます。
ですので、いわば社会の不幸を未然に防ぐ手段として、宗教や教育は大切ですし、道路や橋などに配慮することも、そうした交通の便によって間接的に国民や国家の利益を興し、害を防ごうという趣旨です。


ですので、同じく慈善と呼ばれることであっても、最初に挙げたものはすでに起こった緊急のことに関して人を救うことで、次に挙げたものは将来の幸福を計画するものと言えます。


どちらもその行為が立派でうるわしいことは両方とも違いはないのですが、さらに一歩を進めて考えれば、一般的に人間の社会の中の悪い出来事を止めるためには、まだ起こっていない段階で注意して予防対策を行う方が、労力や費用が少なく済み、かつ効果は大きいものであることが通常です。


一家の家計についても、火の用心にかかる金額は、実際に火事が起こってしまった後にかかる費用よりも安いものです。
このことをより大きな話で言えば、一つの地方の大火事における財産の損失ははかりしれないもので、またその被害者を救う費用も大きなものですが、もしもこの損失費用のお金の分を使って数年前から水道を設置しておいたならば、日ごろからの便利は言うまでもなく、突然の火災をも防ぐことができ、その地方の利益はいかばかりはかりしれないことでしょう。


こうした観点から見るならば、最近東京でも一千万円の資本金を使って水道工事を行ったといいますが、その一千万円を、徳川幕府の時代の二、三百年前に使わずにいたことにより、長い間市民の利益を損ない、また、毎年毎年の火災で莫大な財産を喪失してきたことこそ、今更ながら本当に残念なことだと言えることでしょう。


今まで述べたような利害について本当に間違いがないならば、今の世の中の財産に余裕がある人たちが、寺院や学校などに寄付をしてその事業を助け、これからの若い人たちをよく導いて智恵や道徳の道に入らせることは、単にその若者たちだけを助けるのにとどまらず、未来の世界のために秩序や安寧を維持し、利益の源をより深くつくりだし、まわりまわっては援助をしたその人自身も間接的にその恩恵を受けることにもなることでしょう。


ですので、すでに起こった災害を助けるための慈善はもちろんすばらしいことであり、決しておろそかにすべきではないことはもちろんなことなのですが、予防や将来のための慈善は、さらにすばらしい大きな善行であり功徳と言えることでしょう。