現代語私訳『福翁百話』 第四十二章 「慈善は他の人の不幸を救うことだけが目標です」

現代語私訳『福翁百話』 第四十二章 「慈善は他の人の不幸を救うことだけが目標です」



天の定めることは人間にとって道理があるかないか、それは問題です。
人間の社会の不幸はその人の生き方の責任だけで決まるものではありません。
早く両親を亡くしたみなしごの人もいますし、老後に子どもがおらず孤独で貧しい人もいます。
生まれつきひ弱で心身ともに労働ができない人もいますし、突然病気になって一生身動きができない人もいます。
さらにひどい場合には火事や洪水や地震などの天災によって財産を失い、昨日までは金持ちだったのが、今日は極貧になる人さえいます。


一般的に、こうした種類の不幸な人は、他の人からの助けや恵みを受ける以外に生活していく方法がないことでしょう。
助けを受けたからといって、ただその恩を感謝するだけのことです。
特に心に恥を感じるべきではありません。


また、助けを与えたからといって、そのためにその人の生涯の独立を妨げるというわけでもありません。
このような人助けはまったく経済的な打算を離れて慈善の心から始めることなのですから、人助けは道徳的な世界におけるすばらしい出来事だと観察するべきです。


いや、家計に余力がある人が人の不幸を救うのは、経済的な打算を超えた義務だと言ってもいいことです。
そうであってこそ、人間の社会のありかたも、多少は和やかな優しいものになります。


しかし、また別の側面から見れば、人間は大変横着なものなので、ともすれば自分で働かずに他人に依頼することを求めて、ただ飢えや寒さに迫られていることを訴えるだけに止まらず、おいしい食事や良い衣服まで求めたり、分不相応な消費をせっせとしながら、困った時には人の哀れみを乞う人もいないわけではありません。


若い人たちが思慮もなく酒を飲んで放蕩し、あるいは時代に敏感な紳士たちが偉そうにこの社会を渡っていながら、ある時にひょんなはずみでつまずくと、すぐに親戚や友人たちの世話になろうとするような人がいます。
そうした人々のこうした事実の過程を分析するならば、自分が怠けて自分が楽しみ、その怠け遊んだことの報いである苦痛を受ける段になると、他人の負担で免れようとしているということがわかります。


社会の経済的な側面から言えばもちろんのこと、たとえ寛大な道徳的な世界に訴えても、誰がそのような負担をしてあげる人がいることでしょうか。


そもそも、そのような横着な人の心の中には、他の人の財産がたくさんあるのを見てひそかに胸算用を働かせ、このような金持ちにとってたったこれだけの恵みを与えることはとるに足らないだろうなどと言って、人から物をもらう身なのに相手方の立場になって勝手なことを言いたい放題言うのが常です。
しかし、多かろうと少なかろうと、お金の金額の数は数であって、百から一を減らすのも十から一がなくなるのもまったく違いはないことですので、そのような空想をしても人を動かすことができないだけのことです。


そもそも、生きていくのが困難なこの世の中では、額に汗して働いてもそれでも十分な食事を得ることができない人もいます。
もしくは、生まれつき身体に障害があったり、病気や高齢によって自分で額に汗して働きたいと思ってもできない不幸な人さえ大勢いる状況です。
ですので、大金持ちの人が慈しみの目をそそぐとしても、もっぱらそのような働きたくても働けない人たちにそそぐのみです。
たとえその家に巨万の富があっても、放蕩無頼の非行少年に酒を飲ませたり、当世風のデートやパーティにかまけている男性に豪遊や贅沢の費用を援助するようなことは、断じてしないものです。