現代語私訳『福翁百話』 第十八章 「人間は社会において義務があります」
人里離れた山奥に逃れて一人だけで生活する仙人にでもなれば別ですが、仮にも人間として同じ人間の中に混じって生活して社会の中で衣食住を他の人間と一緒にしていく以上は、自分ひとりの生活や自分の家族の生活を維持するのと同時に、他の人間の仲間たちに対する義務を避けることはできません。
「私は独立している個人であって少しも他の人から取らないし少しも他の人に与えない」とでも言えば、一見他の人々とは関係がないようですが、他の人が書いた本を読み他の人が発明した機械を使って大いにその便益を享受しているのですから、目には見えないところでその著者や発明家の恩恵を、やはりそのように言う人も受けているものです。
自分の家から火事が起これば近所にも火事を起こしてしまいますし、自分の家族が伝染病にかかれば他の人々にも伝染病を感染させてしまうというようなことは、故意や悪気はないとしても、事実として見れば他の人々の財産を奪い他の人々を殺す結果のことです。
こうした事例をあげれば、本当に際限がないものでしょう。
ですので、人間は同じ人間の仲間に対して、これほどに関係が深いものなので、自分の身が仙人ではなくてこの社会の中で他の人とともに暮らしている一員であることを知る人は、体力を鍛えて健康に気を付けて、精神を活発にし、そのことによってまずは自分の身や自分の家族の生計をきちんと確立し維持し、身を粉にするほど努力しても、決して他の人の厄介に直接的にはならないように工夫し、常に黙々と努力して勉強します。
と同時に、そのような人は、いつもその観察する対象範囲を広く持って社会の公共の利益に注意し、なんらかの事業を起こし仕事をするにしても、間接的にはこの世の中全般に利益を与えるようなものを選択することこそ本望であることでしょう。
ギャンブルで勝って得たお金は、お酒を飲むことは十分できるかもしれませんが、そのお金は他の人の損失によって生じたものです。
慈善家によって恵まれたお金によって自分の家の生計の助けを得たとしても、そのお金は誰かの役に立って得たお金ではありません。
それらは、文明社会に生きる人が自ら気持ち良く感じることができるものではありません。
この道理を拡大して考えれば、お金を貸して金利で生活する人は、事業を起こしてその利益によって社会の役に立つ人に及びません。
高利貸が世間一般から尊敬されないことも偶然ではありません。
文明社会の商業や工業は次々に発展するものですので、商品を売る人も買う人も、人を雇って使う人も雇われる人も、共にお互いの役に立って共に社会の快適さや喜びをより増大させ、直接的に人に恵むわけではないとしても、間接的に誰かの役に立っている場合が多いものです。
これこそ、文明社会における人間というものでしょう。