現代語私訳『福翁百話』 第二十三章 「苦しいことも楽しいことも」
家族だんらんはこの上なく楽しい幸せです。
しかし、そもそもこの人間の世界の物事はすべて、交換の法則によってつくられており、どんなにささいな物事であっても、与えることなくして受けとることができるものはありません。
働かなければ生活できませんし、自分から何かを与えなければ人も自分には与えてくれません。
苦労は幸せの原因であり、快楽は苦痛の前触れです。
ですので、男性と女性が家庭を持つことは倫理の根本であり限りない喜びではありますが、この喜びもなんらかの与えることや報いがなければ決して得ることができないものです。
そもそも、人間が自分勝手に生きたいという側面からだけ言えば、独身生活ほど気楽なものはありません。
あらゆる快適さや楽しみは自分ひとりで専有し、苦しいことがあれば自業自得と理解するだけのことです。
朝起きて、夜眠り、何を食べるか、またどこに行こうが行くまいが、すべて自分の自由であって、側に配慮すべき相手もなく、まるで唯我独尊とでも言うような境遇です。
しかし、すでに結婚して、誰かの妻となり、誰かの夫となったならば、その日から独身生活の気楽さはなくなって、寝るも起きるも、どこかに行くも行かぬも、自分の思い通りの自由とはいかず、食事の時刻や何を食べるかすらも、お互いに配慮して考えていかなければなりません。
ましてや、病気になった時などは言うまでもありません。
相手の苦痛はまさに自分自身の苦痛であって、看護の心配はどれほどのものとなることでしょう。
場合によっては、経済的に裕福な家庭においては、一見、医者や看護人を雇って家族の看護に不自由はないようですが、自分にとってはこの上なく大切なその病人を、他人の手に任せたままで安心できるものではありません。
また、病人の側も、すぐ側に自分のこの上なく親しい相手がいなくては心が寂しいものです。
ですので、たとえ治療上のことから言えば自分がいようが関係なくても、心情において、家族は病人の枕元を離れることができないものです。
ですので、病人のすぐ側にい続けるために、夫が病気の時は妻は家の中のことはできなくなり、妻が病気の時は夫は仕事ができなくなり、不本意な日々を送る場合も多いものです。
つまり、独身生活をやめて結婚するということは、それまでは苦労の原因が自分ひとりという一つの原因だったのを、苦労の原因を二つにするというわけで、一見、計算ずくめの考えからは割に合わないもののように見えます。
しかし、そうである代わりに、結婚した後の喜びや楽しさは独身の寂しかった時よりも倍以上のものがあるので、プラス・マイナスを計算すれば結果は妥当なものです。
それだけでなく、一人子どもが生まれれば、その一人分の苦労が増えると同時に喜びもまた増大し、二人、三人と家族が増えれば増えるほど、苦労と幸福の種が多くなります。
苦労も幸福も全体から見れば半々で、要するに家族が増えるほど人生の範囲や大きさが広がると言うべきです。
世間の人々はともすればこうした道理を知らずに、結婚はただ喜びや幸せだけの原因だと思い、子どもが産まれるのは家族にとって幸せだけをもたらすと期待して、結果として予想や期待の通りにならないと、すぐに心の中で自分の義務から逃げ出したいと思います。
そして、自分勝手な思いを起して夫婦仲が悪くなり、お互いに病気の時になっても大事に相手をいたわらないようになり、子どもの養育もおろそかになり、さらにひどい場合は一家の主人が不倫や放蕩に走って、自分自身の心を汚し家庭の雰囲気を台無しにし、その不幸をずっと未来の子どもや孫たちにまで残していく人もいます。
そのような人々は、結局、この世界の人生の出来事には、苦労と幸福は交互に交換しなければならないという法則があることを理解せず、幸福や喜びだけに心を奪われているわけで、苦労を伴わずにいわゆる「丸儲け」をしようとして、逆に幸福や喜びまでも失う「丸損」をしているというわけです。