現代語私訳『福翁百話』 第二十二章 「家族仲良く」

現代語私訳『福翁百話』 第二十二章 「家族仲良く」



夫婦が仲良く一心同体で、思うことは率直に話し合い、お互いに相手のことばにはきちんと耳を傾ける。
ただお互いに話して耳を傾けるだけでなく、きちんとお互いの目を見つめ合って、目をみればすぐにお互いが思っていることがわかり、それだけで用事を済ますことができる。
このことを、「言わず語らずの仲」「以心伝心」と言います。


そのような夫婦は、時にはお互いに意見が異なることがあってケンカをすることがあっても、自分たち自身で訴訟も弁護も裁判もできるようなもので、他の人々に特に依頼したり相談することもなく、すぐに自分たちで問題を乗り越え仲直りできるものです。


日々に努力し、家事や仕事を分かち合い担い合い、苦労を共にして、喜びも一緒に喜び合い、お互いの両親に孝行をし、子どもを養育し、自分の家庭の経済的状態の成功や不成功をお互いに自分のこととして、少しもその責任感や気持ちに違いがない様子は、ちょうど晴れの日も雨の日も暑い日も寒い日も共にするようなものです。


ですので、苦労も幸せも、その家庭の苦労や幸せであって、どちらか一方の個人的な苦労や幸せではありません。
家族が自分と同じように苦労も幸せも共感してともに担い、お互いに少しも分け隔てがないならば、たとえ不幸な境遇や貧しく苦しい境遇にあっても、苦労の中でかえってますます家族は仲良く結束し、自ずと物質的なことを超えた安らぎを持つことでしょう。
ましてや、経済的な状態に余裕があれば言うまでもないことです。


広々とした喜びは家族が一緒に味わうことであり、家族同士でお互いに与えあっても自分がしてあげたとことさら思うこともなく、家族同士から何かをしてもらってもことさら恩だと気にすることもなく、家族のすばらしいところを見れば自分のすばらしいことのように感じ、自分の苦痛は家族も一緒に感じてくれ、同じような遊びや娯楽も家族だと何回楽しんでも飽きることはなく、昔話の絵本も何回聴いても新しい物語を聴くように楽しく、子どもたちが明るく笑いながら話す声は自然と一種の音楽のようで、仮に何か失敗を誰かがしても軽く笑い飛ばすだけです。


家族だんらんの中でならば、こたつで飲む渋めのお茶も甘露の味わいのようで、手作りのお菓子はこの上ない美味となり、お互いのちょっとした言葉や行動や、どんな物事もすべて家族の喜びや幸福の材料にならないものはありません。


ですので、貧しい家庭であろうと、裕福な家庭であろうと、家族が仲良くさえあれば、そのすばらしい幸せは、他人がうかがい知ることのできないものであり、ただその家庭が自分たちみずから知ることができるもので、他の人に言葉で語ることができないものです。


英語では、このことを「スウィート・ホーム(sweet home)」と言います。
「楽しい家庭」「楽しきわが家」という意味です。


人間の家庭であって楽しくないものは本当はないはずなのですが、人の心は様々であり、楽しいはずの家庭をわざわざ苦しい悪魔の世界のように変えてしまう人もいます。


貧しさが心を荒ませてしまって家の中で喧嘩が起こるというようなことはよくあることですので置いておくとして、経済的にはずっと豊かな人であっても、経済的な豊かさというのは場合によっては人を悪魔の道に誘うものとなります。


家庭の経済的状態がやっと余裕ができると図に乗って、家族の中の一人が、他の家族に秘密で自分ひとりの肉欲に耽って家をほったらかしにすることがあります。
そうなれば、お互いに本当は遠慮も何もない仲の良いはずの家族の中に、すぐにお互いに話すことができない秘密が生じてしまいます。
いったんそうなってしまえば、それからは家族の中で愛情ではなく、騙すためのはかりごとを行うようになります。
すでにそのようなはかりごとが生じるようになってしまっては、家族だんらんの喜びはその日から消滅して、「楽しきわが家」は破滅してしまったと言えます。


もしくは、そのような状態になっても、大きな波風を起こさずに家庭がなんとか続いているような人もいるようですが、その内実は他の家族が主人の権力を恐れてただ服従しているだけのことです。
内心に潜在している災いの種はかえってますます深いもので、いつかはきっと何らかの結果を生じざるを得ないものです。
たとえ、その人本人は自分が生きている間は何事もないかのように取り繕って死ぬまでごまかしたとしても、子どもや孫たちがそのことによって不幸を蒙ることは避けられません。
結局、その人が自分の低劣な肉欲と「楽しきわが家」のすばらしい喜びを引き換えにしてしまったわけであり、そのような人に対しては物事の大事さを見誤っているというよりも、ただ人間として品性が卑しい男性だと批評するのみです。