現代語私訳『福翁百話』 第四十八章 「人間のものごとは裏側を忘れるべきではありません」
「たとえ地の果て山の奥、どんな苦労も厭いません」とは、男女の恋で理性を失った様子を表現した民謡の歌詞であり、言葉はあんまり品があるものではありませんが、政治家や知識人が注意すべき事柄です。
子どもは生まれると父母に養育されて、年齢がすでに十分成長すれば親のひざもとを離れて、それぞれ配偶者を得て苦労や喜びを相手と共にし、夫婦仲良く生活していくことは自然の決まりごとであり、これを妨げる人はいないだけでなく、父母といえども一定の範囲以外のことには軽率に干渉をすることはしてはならず、その夫婦が自分で自由に行動して行くところまで行かせて、為すことを為させて、忙しく大変なこの人間の世の中を自分の力で努力して渡っていかせてこそ、はじめていろんな事業も興るでしょうし、文明も進歩することができることでしょう。
ことわざに、「生まれてから死ぬまでの間ずっと、親がつくってくれた竈(かまど)で食事をしていくものは意気地がない」と言います。
男性も女性も、人たる者は本来独立すべきであるということをよく表現しており、間違っていない言葉です。
たとえば、農業や工業や商業に携わる人が遠く海外まで行けば、言葉も風習も異なる不慣れな土地であるために、不自由このうえないことは人に語ることばもないほどでしょう。
これこそ「地の果て山の奥」の苦労ですが、それでもなおこの苦労に耐えることができるのは、その寂しい新天地でも夫婦が一緒に生活する喜びがあって、そのことによって苦労を乗り越えることができるからです。
ですので、今、国家社会を経営するための一端として、海外への進出や移住を奨励していますが、そのための方法や手段としてさまざまな事柄が多くある中で、海外に住む人をまずはとにかくその土地で結婚して家族をつくらせることは最も大切なことです。
最初に移民を希望する人を募集する時も、すでに結婚している人を選び、また、独身の人はなるべく早く結婚できるような便宜をとりはからい、いわば速やかに故郷を忘れることができるような工夫をしなければなりません。
なお、このように言っても、現実には独身の人も多いことでしょうから、人間の世界の性情に対する窮余の一策として、風俗業に携わる人が出入りすることも、法律の網を閉じないようにして自由にさせるしかないことでしょう。
西洋人の言葉に、移住地は教会と酒場があってはじめて成り立つというものがあります。
その理由は、移住した人々の苦労や辛さは、酒の楽しみによって埋め合わせ、酒による道徳上の誤りや苦しみは、宗教の福音によって救い、苦しんでは楽しみ、楽しんでは矯正するという意味です。
西洋のもろもろの強国は、海外に軍隊を駐屯させていますが、その駐屯地には、必ず風俗業の女性たちがいます。
もしもそうでない時は、政府がひそかに風俗の女性たちが行き来できるような便宜を与えて、現地の需要に応じると言います。
風俗業の害悪は大きなものですが、このような娯楽を禁止するとかえって兵隊たちの気性を荒くしてその害悪はさらに大きくなるので、その利害を比較して、醜い風俗業を黙認しているというわけです。
一般的に、こうした話は卑しく猥雑なもののようで、知識人が議論することを好まない事柄です。
しかし、無駄に議論の表面を清らかにしようとして、かえって人間の感情や心の裏側を忘れてしまい、言葉だけ清潔で思ってもいないところに醜態があらわれて、そのことによって国家の実際の利益を台無しにしてしまうことが多いものです。
ですので、あえてここに一言試みとして述べてみたわけです。