現代語私訳『福翁百話』 第四十七章 「女性の愛情について」

現代語私訳『福翁百話』 第四十七章 「女性の愛情について」



西洋の学説の中に、女性の身体は生殖のための器官を中心にしており、他の心身の部分も生殖のためにあるというような説があります。
この説は、女性の心身は愛情という一点のみに集中するべきだという理想を簡潔に述べてもいます。
この言葉は本当にそのとおりに思えます。


今、この説を事実と照らし合わせてみるならば、女性は生まれながらに心が優しく、身体の振る舞いも荒々しくないものです。
このことを男性と比較するならば、幼い時から何ごとも女性は控えめで、自然と恥じらいの気持ちがあるのが、先天的な性格と言えます。
成長すると、この性格はますます生じてきて、日常生活での言葉や行為やちょっとした笑顔や顔をしかめたりすることなどの表情に至るまで、その理由はすべて愛情という一点から発していないものはありません。
入浴や化粧は女性が普段から心がけることであり、服装に思いを凝らして立ち居振る舞いに心を働かせて、少しも人に不快感を与えたり笑われるようなことがないようにしようして注意を払う努力は、ほとんど男性の想像を絶している場合が多いものです。


医学の学説の中に、上流階級の女性たちがしばしば便秘に苦しんでいるのは、そうした階級の女性たちは日常生活において御手洗いを我慢することが多く、しかも体の外にガスを洩らすことも我慢してめったにしないために、自然に腸の感覚が鈍くなり、その忍耐の習慣が代々子孫に伝わって、ついに便秘症となって遺伝するようになったと言う説があります。
このことは、すべて行儀作法において悪いことを避けて、優雅な振る舞いをしたいという気持ちから起こったことで、そのための注意や心がけのあげく、通常の身体の運行に変化が生じてしまったとはただ驚くばかりです。


中国の古典『詩経』「衛風」に収録されている「伯兮」という詩の中に「豈無膏
沐誰適為容」(豈(あ)に膏沐(こうもく)すること無からんや、誰を適(てき)としてか容を為さん)「夫がいないのに誰のために入浴や化粧をしましょうか」という一節があります。
また、日本の昔の歌に、「誰(た)れに見(み)しょとて紅(べに)かね着(つ)きよぞ、みんなぬしへの心中(しんじゆ)だて」(誰に見せようと思って口紅をつけて化粧したと思っているの、全部あなたを想ってしているのよ)という歌もあります。
これらの詩や歌は、女性の真情をよく描写しています。
ただ、これらの言葉によれば、女性はただ一人の男性に対して、その愛情を得るためにおめかしや化粧をするように聞こえますが、そのように直接的なものだけとは限りません。


たとえて言えば、女性の愛情が真剣であるその様子は、封建時代の武士が武道に熱中するようなものです。
かつての武士は、二本の刀を腰に差していつも武芸を磨き、ほんのちょっとの動作にも油断しないようにしていました。
これは、必ずしも誰かを敵と思ったり誰かを切ろうと思っていたわけではなく、武士の本領は闘うことにあり、そのために日常生活からの心得として勇気や武道を重視し、姿勢や態度も凛としていなければならないと思っていたからです。


それと同様に、女性が姿かたちや行儀作法を重視することを見て、はたして誰に対してのものか、誰の愛情を得ようとするためだろうかなどと、直接の関係を推察したり議論することは、まだ事態の真相に到達していないものです。
女性がそうしたことを重視して自ら注意するのは、必ずしも愛する人がいるためではなく、また必ずしも夫や恋人に対してその愛情を得ようとするためでもありません。
相手が男であろうと女であろうと関係なく、人に対してはひとつの言葉や話し方、ちょっとした行為や振る舞いも油断することなく、その容貌の美しさやその家の経済的な状態にかかわらず、上は王侯貴族や大金持ちの深窓の令嬢から、下は辺鄙な田舎で草を刈っているあんまりきれいではない娘さんに至るまで、ちょっとした笑顔や愛嬌にも、はにかむようで、また人の関心を得るようで、相手の心に反感を得ないように努力することは、女性の本領であり、そのための注意が緻密であることは、武士が武道において緻密であるようなものであると言うよりも、さらに一層深く緻密であるものです。
女性の愛情の形の真相はどのようなものか、よく見るべきです。


もしくは、女性が常に醜いことばを語らず、醜い振る舞いを嫌い、男性でやや軟弱な感じで馴れ馴れしい振る舞いをする人がいれば、かえってそうした人を嫌い、そうした人に近づかないようにすることは、一見冷たいようにも見えますが、実際は決してそうではありません。
日常生活のたしなみにおいては、あくまで優雅で上品であり、清潔で一点の曇りもないように努めているところに、少しでも男性と軽率に遊ぶような振る舞いをしてしまっては、女性の本来のありかたを傷つけ、真実を失ってしまうために、特に気を付けて超然としているだけのことです。
つまり、女性の冷淡さは、本当は愛情が深くて溢れるようなものだからであり、本当の武士が軽率に武道を語らず武道をひけらかさず、胸の奥深くに勇気をかくし持っているようなものです。
武士はこのことを「沈勇」(奥深い勇気)と呼びますが、女性においては「沈情」(奥深い愛情)と呼ぶことができるかもしれません。
武士が軽率であれば本当の武士ではないように、女性が浮気性であればまだ本当の愛情を知らない女性だと言えます。


以上に述べたことが決して間違っていないのであれば、女性の心身はすべて愛情という一点に帰結するものであるのは明白な事実であり、昔や今の学識ある人々がこの点について深く論究することをせずに、凡庸で通俗的な人々の議論に付和雷同して女性の結婚のありかたについて注意を払わずにおろそかにしてきたことは、人間のさまざまな事柄の中でも最もひどい不注意の極みと言えます。


そもそも男尊女卑は、千数百年間の悪い習慣です。
ただ凡庸で通俗的な人々だけでなく、いわゆる知識人や学識ある人々までが、本に書き人に教える内容において、女性が窮屈であったり不自由であることを女性にふさわしい貞淑な徳であると主張して、表面的には言葉や動作の優雅さを奨励するのと同時に、裏面では女性の愛情の素質を圧迫して、そのことに全く無関心で無知である状況が、この世界の数知れない女性たちをほとんど窒息させるような悲惨な状況に追い込んできました。
このことは、知識人の罪や責任でなくて一体何だと言うのでしょうか。


もしくは、知識人たちは、女性がもの静かで言葉であまり主張しない様子を見て、女性たち自身も満足していると思って女性の置かれている状況に注意を払わなかったというのでしょうか。
そのようなことは、言うならば物事の日の当たっている部分だけを見て影となっている部分を見ないようなもので、俗に言うところの人の心がわからない愚か者とこそ言うべきものです。
世間においてどれだけ多くの女好きの男性が一夫多妻の醜いありようを醜いとも自覚せず、自分勝手な性欲を満たし、その大勢の妻の中の一人、あるいは何人かは、無駄に孤独な歳月を過ごし、自分自身の人生や愛情の喜びを犠牲にして、夫と呼ぶその動物のために奉仕するわけです。
あたかもの人間の世界における畜生の振る舞いですが、知識人たちがこのことを議論する者がほとんどいないのは一体どうしたことでしょうか。


また、人生における不幸として、二十歳、あるいは三十歳や四十歳にもまだなっていない女性たちが、夫と死別することはしばしばあることです。
この不幸を見て、世間の人はどのように思うかというと、ただ不幸を悲しむばかりで女性の今後の人生を良くするために再婚を勧める人は少なく、むしろ寡婦として一人で生きていくことを励ます気持ちの人が多いようです。
こうした事柄において、口数多く介入してくる人の多くは男性であり、しかもその男性は五十代、六十代であって、自分は妻と死別したらすぐに後妻を求めながら、他人のこととなるとさまざまなことを口実にして女性の再婚の妨害をすることは、本当におかしなことと思われます。


しかも、夫に死に別れた妻自身を見てみても、長い間続いてきた代々の遺伝により、あるいは世の中の教えや通念の束縛に慣れているために、あるいは自分自身の身の優雅さや品位を重視する感情によってなのか、黙って夫の死後は独身であることを守り続け、あえて自分から再婚をしたいと言わないだけでなく、かえって再婚を拒む人が多いことも世の中によくあることです。


こうした状況を傍観していると、ますます断腸の思いがして耐え難くなってきますが、凡庸で通俗的なこの社会の風潮は、どうしようもないものです。


しかし、一般的に人間の世の中における悪事は、その存在を無かったことにすることはできないもので、原因があれば結果が生じるのは避けられないことです。
一夫多妻制といい、また若い女性が未亡人となって独身で生きることといい、女性のためにはとても重要である人生における愛情という点をめちゃくちゃにされている、この無理無体な様子をたとえるならば、封建時代の武士に武芸を禁じ、知識人から本やペンを取り上げるのと同じで、無理な圧迫はその報いがどこかに生じざるを得ないものです。
一夫多妻制による不和や喧嘩は暗く陰湿で根深いものであり、思いもしないところで爆発して夫である男性本人の悩みとなるだけでなく、その男性が死んだ後に最初に問題となることは、多くの未亡人たちをどうするかということであり、そのことで親子は不和となり、兄弟姉妹は争い、誰が家を相続するか、財産の配分はどうするのかということに忙しく、お墓の土が乾く間もなく、骨肉の争いは訴訟沙汰にまで発展し、亡くなった父親の法事の日にお寺のお坊さんは来ずに弁護士が出入りしているなどというようなことは、世間にけっこうよくあるものです。


また、夫が死んだ後独身でずっと一人暮らしである女性の様子が優しいものあることは、単に外見の様子だけのことであり、心が優しく美しくあることはなかなかありえないことです。
子どもの養育や家計の維持を、弱い女手ひとつで一手に引き受け、夫が生きていた時は何事も柳のようにやわらかに受けとめていたその心は、今は鉄の心臓に変化して、世の中になんら恐れるものも憚るものもないと決心して生きていかねばならないわけです。
しかし、実際にそのように決心して生きていこうとすれば、この世には恐ろしいことも多く、周囲は皆敵のようでただ寂しいばかりです。
そのことを忍耐して我慢してつらい歳月を送るうちに、人間の身としてどうしても仕方なく、心は暗く憂鬱になりついに病気に倒れたり、あるいは病気で倒れないとして健全な状態ではなくなって心身ともに正常な状態を失ったり、知らない間にいつの間にか気難しい老婆に変わってしまい、自分自身も楽しくなく、毎日いつも気難しいことを言っては嫁を苦しめるのはもちろんのこと、あげくのはてには幼い時から手塩にかけて育てた自分の実の子までも疑ったり怨んだりして、理由もなく一家だんらんを妨げてその楽しみを台無しにしてしまう人も多いものです。


昔の言葉に、「人として愛情を知らないものは、玉でできたコップに底がないようなものだ」と言います。
愛情を知らない人の殺風景で興ざめな様子を評したものです。
さらに私は一歩を進めて、年齢がまだそんなに年をとっていない女性が夫を喪ったあとにずっと独身で暮すのは、コップに底がないだけにとどまらず、玉でできたコップの全面に針が生じるのと同じようなものだと主張したいと思います。
本人が不幸であることは言うまでもなく、その人が自分では知らないうちに、家庭生活や社会の円滑さを妨げる災いはいったいどれぐらい大きなものでしょうか。


昔、将軍や大名たちの大奥や奥といった場所において、一生の間奉公して生涯独身だった女性に、心が優しい人がめったにいなかったことは、世間では一般的に皆が知っていることです。
また、今の社会においても、年をとった夫婦が両方ともそろっている家における嫁と、年をとった姑ひとりの家における嫁と、どちらが嫁姑の関係が良いかと尋ねれば、平均的には舅と姑が両方いる方が、姑だけと暮すより、嫁は幸せなようです。
老いた夫が必ずしも老いた妻を止めたりするわけではなくても、夫婦が一緒に老いて過ごす境遇は、自然と心を和やかなものにし、嫁に対しても思いやりが深く出てくるためです。


ですので、ひとえに愛情という一点を心身の最も重要な要素としており、ほとんどそればかりを心に懸けている女性を観察することが甚だ粗雑で、社会において一夫多妻制を公然と行わせ、あるいはまだ若い盛りの女性を夫が死んだ後は独身で過ごさせていながら、未だかつてその害悪を論じる人がほとんどいないということは、知識人たちの怠慢と言わざるを得ないことです。
一夫多妻の弊害を急に禁止することはできないというならば、少しずつ正していくための方法は決して乏しいわけではありません。
ましてや、夫に死に別れた女性の再婚のようなことにおいては、もっと多く正すための方法があるはずです。
この社会をリードしている人々が、考え方や精神のありようを一転させて、従来の東洋のならわしによって暗黙のうちに夫を亡くした女性の独身生活を奨励してきたその論法を逆にして、丁寧に再婚の必要を説いて、あるいはそのための実際的な方法を工夫することは、少しも世の中の道徳を妨げることもなく、一切の様子において立派に行えることでしょう。


このことは、小さな事柄のようですが、決して小さなことではありません。
女性が憂鬱で暗い心であれば、まず一家だんらんの心を壊して冷却させてしまいます。
家庭のありかたが、さまざまな災いの中に根深くあるものとしてさまざまに波及する害悪を考えれば、その女性一個人の幸福をしばらく置くとしても、社会全体のありかたとして大問題でありおろそかにすべきことではないものです。


西洋の文明が広く日本に行われるようになって以来、日本の知識人の中にも女性の権利についての議論が長く行われてきました。
一応もっともなことのようですが、女性の本領である愛情についての圧迫を放置しながら、女性の権利や権力の西洋との違いばかり議論することは、ちょうど封建時代の武士に二本の刀を腰に差すことを禁じたり、今の時代の軍隊から銃や兵器を取り上げて、その魂として依拠するものをなくしてしまいながら、武士や軍隊の士気を鼓舞しようとすることと同じものです。
物事の優先順位やどちらを急ぐべきかについて間違っていることが甚だしいというものでしょう。


ですので、私は女性の権利や権力について論じず、むしろ女性の愛情の重要性について議論しています。
いいえ、より正確に言えば、女性の愛情の重要性を議論することは、直接女性の権利や力を本当の意味で盛んにさせる根本であるとして、特にこの愛情についての議論を主張しているわけです。