現代語私訳『福翁百話』 第四十六章 「早い結婚は必ずしも悪いわけではありません」
最近の西洋の流行の学説にかぶれて、男女が早く結婚するのは良くないと主張している人がいます。
その説によれば、年齢がまだ若いのに結婚すれば、早く子どもを産んで生計に困るし、若者の身体がまだ完成していないのに子どもを産めば、父母の身体を損ない、またその生まれた子どもの身体も必ず弱いものになる、などと言って、その矛先は経済的な観点の議論と生物学的な観点の議論の二つの方法から来ているようです。
議論は流暢なもので一見道理があるように見えますが、社会の事象はひとつの側面からだけ見て急いで利害を判断すべきではありません。
早い結婚に害があるならば、遅い結婚にも害があります。
利害は双方とも同じようなものであり、早婚に限って特に害があると断定すべきではありません。
若くして早くに子どもを産めば家計に困ると言いますが、男女が結婚してひとつの家庭を持って暮すことは人生においてこの上ない幸福や喜びですので、この喜びに刺激されて一生懸命頑張るようになる面があります。
この世の中の困難を知らずにわがままに育った人が、結婚してからは活発に一生懸命働いて、見事に世帯を持って一家の生計を維持していくという事例は世の中にけっこうあります。
また、早く子どもを産めば、それからしばらくの間の心配たしかにあることでしょうけれども子どもが成長してからは親子ともに力を合わせて働くことになり、その利益は非常に大きなものです。
一般的に、世の中において親を持たない孤児ほど憐れむべき、また人生において条件に恵まれない人はいないことでしょう。
両親の年齢が五十、あるいは六十歳ぐらいで、子どもの年齢は五歳か十歳ぐらいだと言えば、どうすべきでしょうか。
親はどんどん高齢に達し、子どもの成長は遅いものです。
やがては父母が先に死んで孤児となる不幸も予測されます。
その家族にとっても、社会にとっても、この上なく都合の悪いことでしょう。
これは晩婚の弊害と言えます。
また、早婚の子どもは虚弱だという説は、簡単には信用できないものです。
世界各地の気候風土の違いは別の問題として考えるとして、日本の歴史の事実に照らしてみても、この説の反対事例は容易に見つかるようです。
例として、日本の昔の歴史上の英雄について二、三の事例を示してみましょう。
平安時代の関白・藤原忠実は、八十五才の長寿ののちに亡くなりましたが、忠実がその息子の忠通を生んだのは二十歳の時でしたが、忠通もまた六十八才まで生きた後に亡くなりました。
平忠盛は十九才で清盛を生み、清盛は二十歳で重盛を生みました。
北条時政が政子を生んだのは二十歳の時であり、義時が泰時を生んだのもまた二十歳の時でした。
徳川家康の祖父の松平清康は十六才で広忠を生み、広忠が十九才の時に十五才の夫人との間に生まれたのがつまり徳川家康でした。
家康は十八才の時に嫡男の信康を生み、その後も多くの子息を設けて家族は繁栄し、老齢の時に大阪の冬の陣・夏の陣で戦場に家康が赴いた時には、子や孫が付き従い、三代にわたる男の子たちが共に戦場に疾駆したような事例は、本当に家族隆盛の事例であり、これは早い結婚の賜物と言えるものです。
もしくは、以上のような事例は昔の英雄や名家の話なので特別な事例だという説もあるかもしれません。
しかし、名もない平凡な家でも、その事例はよくあることです。
身近なところでは、私の祖母は旧中津藩の藩士の家に生まれ、文化元年(西暦1804年)に十五才の時に娘を生み、翌年に十六才の時にまた娘を生み、いわゆる年子だったわけですが、その二人の娘とも健康で体格もとても逞しく、二人とも七十才の長寿に達し、その二人の娘の長女の方に生まれたのがこの福沢諭吉です。
本当によくあることであり、日本の国の中に無数の事例があることでしょう。
ですので、早い結婚で生まれた子どもはひ弱だという主張における、そのひ弱だという事例の理由は早い結婚ではなく他に原因があることであり、そのことをもって性急に早い結婚をとがめるべきではありません。
一歩譲って早い結婚に多少の害があったとしても、その害は本当に些細なものです。
もって生まれた体質が弱いうえに不養生を重ねて、栄養が不足であったり、そうでなければ過度の美食をして、睡眠や生活のリズムも不規則で、定期的な運動も仕事もせず、身体の底深いところに病根を持つ人は、早い結婚であろうと遅い結婚であろうと関係なく、もともと丈夫な子どもを産む方法がないものです。
ただ早い結婚の不都合だけを喧伝するのは、あまりに表面的な判断だという批判を免れないことでしょう。