現代語私訳 橋本左内 『啓発録』 第一章 「幼稚な心を去るということ」
幼稚な心とは、幼い心ということです。
俗に言う、子どもじみたことです。
果物などがまだ熟していないことを「稚」と言います。
「稚」とは、なんであれ、まだ未熟なところがあって、その物が十分熟しておいしい味になるということがまだないことを述べています。
何事であれ、「稚」ということを離れないうちは、物事を成し遂げるということはありません。
人間においても、竹馬や凧(たこ)を飛ばすことやボール遊びを好んだり、もしくは石を投げたり昆虫採集を楽しみ、もしくはお菓子や甘い物を貪り、怠けてラクなことにばかり耽り、父や母の目を盗んで、行うべきことや学ぶべきことを怠ること。
あるいは、父や母に依存する心を起したり、父や兄が厳しいことを恐れて、とかく母親の膝もとに近づいて隠れたがるようなことは、すべて幼い子どもの未熟な心から起こることです。
幼い子どもの間はあながち責める必要はないことです。しかし、十三、四歳にもなり、学問に志を立てた上には、このような心持が毛筋ほども残っていては、何事も上達しません。そんなことでは、とてもこの世界で偉大な人物となることはできないことでしょう。
源平合戦の時代や、戦国時代の頃までは、十二、三歳で母親と別れて、父に暇乞いをして初陣などをし、実績や名誉を達成した人物も随分といます。
これらのことは、その人に幼稚な心がなかったからです。もし幼稚な心があれば、親の膝元から少しも離れることができなかったでしょうし、ましてや実績や名誉を達成することはありえようはずもありません。
かつまた、幼稚な心が害のあるものであるという理由は、幼稚な心を取り除かない間は武士としての気概が発揮できず、いつまでも臆病な武士になってしまうからです。
ですので、私は、幼稚な心を去るということを、武士道に入る一番最初のことだと思っています。