現代語私訳『福翁百話』 第四十四章 「女性の再婚について」

現代語私訳『福翁百話』 第四十四章 「女性の再婚について」



この世の中を軽く見て、人間のあらゆる出来事を一時の遊びやゲームのようなものとみなす。
しかも、その遊戯を本気で努力し、怠らず、ただ怠らないだけでなく本当に熱心に努力の極みにまで達す。
しかし、万一の時は、もともとこの世はただの遊戯のようなものだと自覚し、熱中をすぐに冷まして方向を柔軟に転じて、さらにまた別の遊戯やゲームを楽しんでいくことができる。
このことを、人生における本当の自由な安心な生き方と私は呼んでいます。


ですので、個人的に思うことがあります。
昔の人の道徳的な教えには、忠義な臣下は二人の君主に仕えるべきではなく、貞節な女性は再婚して二人目の夫を持つようなことがあってはならないというものがあります。
女性の貞節を奨励することは非常に良いことです。
ただし、一夫一婦制は現代の文明の世界において、すでに自然の決まりごととして認識され、この決まり事を遵守して社会の秩序を形成しているので、もし貞節な女性は二人目の夫を持つべきでないというのであれば、それと同時に、貞節な男性もまた二人目の妻を持つべきではないと言えます。


このことは、まさに天が命じることなのですが、しかしながら、生あるものは必ず死ありということもまた自然の定めたことであり、しかも人の死がやって来る時は年をとってからか若い時かわからないことでもあり、夫婦がともに年をとるまで一緒だというわけにはいかない場合も多いものです。
この夫婦の死別という事態に際してのわが国日本の習俗がどのようなものかということを見るならば、男性は再婚して後添いを得ることに少しもためらいがなく、さらに三度目の結婚すらなんの妨げもないようなものなのに対し、女性が寡婦となって再婚する者は比較的少ないものです。
場合によって、たとえばもう高齢の女性で子どもも大勢いるなどという事情であれば多少考えるところもあるかもしれません。
しかし、三十才前後でまだ四十才にもなっていない年齢でありながら、夫を喪えばその人に対して未亡人という名称で呼ぶのはいかがなものでしょうか。
あたかも夫と一緒に死ぬべきなのに不思議にも生き残ったもののようにみなして、親戚や友人たちも捨てて顧みることなく、たとえ家の生活のためなどの事情に迫られてやむを得ず再婚することがあった場合、本当は再婚に対して本意や満足ではなく、女性自身も少し恥ずかしいように思い、周囲の人々も内心喜ばないのが、未亡人という名称の意味するところのようです。


結局、昔の人の道徳的な教えである、「貞節な女性は再婚して二人目の夫を持たないものである」という言葉に束縛されて、そのような状態になったものでしょう。
本当に正当な理由のない状況であって、貞節な女性が再婚して二人目の夫を持つことが道徳として誤ったことならば、貞節な男性も再婚して二人目の妻を持つべきではないことでしょう。
女性には厳しく、男性に対してゆるやかであるこのような状況は、偏りも甚だしいものと言うべきです。


ですので、忠義な臣下は二人の君主に仕えるべきでなく、貞節な女性は再婚して二人目の夫を持つべきではない、ということは、一人の人間が同時に二つの国の君主に仕えることがないように、一人の女性が同時に二人の夫と馴れ親しむことないように、という意味に解釈することができます。
そのように解釈するならば、すこしもこの人間社会の物事に妨げもなく、本当に立派な教えです。
それなのに、男尊女卑の習慣が、この教えまで極端に歪曲して女性の自由を奪い、あたかも女性を窒息させるような状態に至っている現状こそ、本当に残酷なものでしょう。
本当に感心できないことです。


ですので、以上の述べた主張はやや女性の自由を強調しているように見えるかもしれませんが、このように言ったからといって、すべての女性は結婚を軽くて見て寡婦であり続ける必要がないだけでなく、いろんな男性とくっついたり離れたり自由気ままに行動しなさい、と勧めているわけではありません。


結婚は人生にとって最も大事なことで、すでに結婚した以上は死ぬまで簡単に解消するべきではありません。
夫婦は一心同体であり、結婚生活に細心の注意を払って、他の異性を顧慮することがないようにすべきです。
ですが、ただ人間の身としてどうしようもない死別ということに関しては、当初の覚悟を改めて、第二の人生に入り、気持ちを颯爽と入れかえて、ほんの少しも曇りがないようにするという心構えを自他に明らかに示すべきです。
つまり、これが、人生において本当に自由に安心して生きていく方法だと知るべきです。