内村鑑三の「青年に告ぐ」を読んで

今日、ふと、内村鑑三の「青年に告ぐ」を読んでみた。


ごく短い文章なのだけれど、なかなか面白かった。


内村によれば、若く、かつ最もすぐれた人こそ、キリスト教におもむくべきだとのことである。


にもかかわらず、宗教や信仰が、年寄りや落伍者のものと思われているし、実際そのような人ばかりであるのは嘆かわしいと説く。


そのうえで、今の日本は、せっかくキリスト教におもむいたとしても、四つの浅薄な種類の信仰や宗教になりがちだという。


四つの浅い宗教のありかたというのは、


1、国家をそれによって救おうとする宗教。
2、社会を改良し慈善を目的とした宗教。
3、哲学としての宗教。
4、儀式や儀礼ばかりの宗教。


だと内村は述べる。
つまり、本当のキリスト教というのは、たしかに結果として1や2の結果も生じるが、これは目的ではなく、何よりも信仰は霊魂の病を癒すものであり、その目的・結果を忘れた宗教は浅薄だと述べる。
また、哲学や論理はしょせんは宗教とは別物で、哲学や論理を通じて得たような宗教は、それらが変われば(そしてそれらは変わるものだと内村は述べる)、また信仰もぐらつき、変化してしまうという。
4は形骸と述べる。


それで、内村は、ただ新約聖書にもとづき、新約聖書の言葉に生きるキリスト教を主張していた。


私はクリスチャンじゃないので、内村のキリスト教絶対主義的なところや、仏教をじいさんばあさんの宗教と決めつけているところはいささか閉口するところもあるが、それはともかくとして、さすが内村鑑三というか、これほど熱烈で鋭いことを言う人が、はたして仏教側に当時幾人いたのかということは考えさせられた。


仏教も、本来は、若くて最も知性や精神にすぐれた人こそが携わるべきことだろうに、年とってからのことと勘違いされやすい。
そのうえ、仏教にたずさわる側が、必ずしもそれに対して問題意識を持っていないような場合も多い。


また、1〜4が浅薄な宗教だというのは、これは仏教の観点からしても全く同じだろう。
しかるに、今の仏教の姿ときたら、ほとんどは4で、大学などの象牙の塔は3、あといくばくかの新興宗教に1や2の形態のものがある、という感じだと思う。


そして、本当の仏教というのも、ただひたすら仏典にもとづき、仏典の言葉に生きるものだろうに、ろくに仏典を読まない坊さんや自称仏教徒も多い。


内村鑑三は、いろんなインスピレーションを与えてくれるという点で、本当は、キリスト教徒よりもむしろ仏教徒こそ読んで参考にした方がいいのかもしれないなぁ。