内村鑑三 「夏の午後」

内村鑑三の『夏の午後』という文章に感銘を受けたので、タイピングしてみた。
深く心に響く、純粋な信仰の結晶のような文章と思う。




内村鑑三 『夏の午後』
(『教へられし所の確実』)


 これは炎熱灼(や)くが如き夏の午後(ひるすぎ)、あるふるき友人の訪問を受けて、彼に余の今日の信仰状態をうち明かさんとして述べし所である。


 余はキリスト教を信じてより今年で三十六年になる。しかしながら、未だ全くキリスト教がわかったということはできない。キリスト教に今なお未決の問題が多くある。キリストは何人(だれ)であるか、聖書はいかにして成りしか、ヨハネ伝ははたして使徒ヨハネの著作であるか、聖書はいかなる意味において神の言葉であるか、贖罪は単にユダヤ思想としてのみ見るべきであるか。その他キリスト教の諸問題にして学者の異議なき一致を見る能わざるものは挙げて数うべからずである。この時にあたり余が拠ってもって信仰の基礎とすべきものはあるか無いか。また、もしあるとすれば、それは何であるか。そのことを定むるのは最も大切である。余はある時は思う、余が三十六年間のキリスト教の研究によってかち得し所は何物であるかと。余はこれを思うて読書研究の労多くして功すくなきことを歎ぜざるを得ない。数年にわたる研究の結果として余の作り上げし学説は他の研究者の一撃に遭うてうち壊され、築いては毀(こぼ)たれ、建ては崩され、希望と失望とを続けて今日に至りしを思えば、自分ながら無益の労を憐れまざるを得ない。しかしながら、余は正直なる研究の決して無益でなかったことを信ぜざるを得ないのである。余の半生の研究は余に何か一つ永遠の真理を供したであろうと思う。余は無益に数百千冊の書物を繙読したのではないと思う。余の作りし学説はことごとく夢であって、余の築きし教義はことごとく幻でありしとするも、余は研学の苦業を重ねつつありし間に何か一つ永遠的の、宇宙的の、万有の基礎として見るに足るべき真理を獲得したのではあるまいかと思う。


 しかして、かかる真理の一は確かに神は愛であるということである。このことたる、言うに至て容易(やす)くして信ずるに甚だ難くある。神が愛でない証拠として挙ぐるに足るの事実は決してすくなくない。天然を見ても、歴史を調べても、余一個の生涯の実験に照らして見ても、神は愛に非ずと唱えてさしつかえの無い事実は無いではない。しかしながら、天然と人生との研究を続ければ継(つづ)くるほど、神は愛に非ずとの提議を維持する事のますます困難なるを覚るのである。万物のおもむくところは愛、万物のおわるところは愛、万物を支配するところの法則は愛……天然と人生との研究の結果はついにここに帰着せざるをえないのである。


 神は愛である。しかして、愛の行為は犠牲である。愛は犠牲として現われざるを得ない。しかして神は最高の愛であるがゆえに、彼は最大の犠牲を払い給う。彼は人類の罪悪に対するに義罰をもってし給わない。御自身その罪を負いて、彼らに代わって苦しみ給う。彼はいかなる方法によって人類の罪を負い給いしか。その事はわからないとして、神が愛である以上は、彼は何かの手段によりて、御自身我らの罪を負い、我らに代わって苦しみ給いて我らの科(とが)を除き給うとは、これまた神に関する思想として動かすべからざるものとして認めざるを得ない。


 神は愛である。その行為は犠牲である。余の信仰を煎じ詰むれば、残るところはこれに過ぎないであろう。しかしながら、これ実に莫大なる残物である。これだけ残れば、実は他のものはいらないのである。これ、万巻の書を読破して求むるの価値ある真理である。余の半生の研学の結果として、これだけがわかりしならば、余の労苦は充分に償われたと言わざるをえない。我らは死んで我らの愛読した書籍を背負うてかしこに往くのではない。我らの把持せし学説の果して永久の真理であるか。これ何人も断言することのできることでない。我らはただ一個かまたは二個の大真理を心裡に収めて、この世の土産としてかしこに往くのである。余もまた幸いにして少しく文字を解するを得、少しく螢雪の功を積むを得、光明(ひかり)欲しさに泣くを得て、これだけの真理を余のものとなすを得しならば、余は余の研究の結果を充分に収め得たりというて差支えがないだろうと思う。


一、神は在る。
一、その神は愛である。
一、愛の行為は犠牲である。


 他のことはことごとく過誤であっても、このことだけは真理である。宗教哲学の諸問題はことごとく不明に終るとも、このことだけは確実である。余はこのことを余の信仰として維持することができる。これ余の「教へられし所の確実(まこと)」である(ルカ伝一章四節)。

 今日、余の所有する書籍がことごとく焼失しても、このことだけは余と共に残るであろう。よし、近世の聖書学者の研究の結果として聖書の天啓説がことごとくうち壊さるるとも、このことだけは聖書が余に教えてくれし無限の真理として、永遠に余を離れまいと信ずる。しかして、余は他の事を唱えざるも、このことはこれを唱えざるをえない。余の伝道なるものは、実はこの単純なる真理の宣伝に過ぎないのである。永生といい、天国といい、救済といい、この真理の実現に過ぎないのである。 
 しからば人は言うであろう、これ単純なる真理なり、誰かこれに対して異議をはさむ者あらんやと。
しかり、これに対して異議をはさむ者は無いかもしらない。しかしながら、これを信じてこれを行う者はすくない。神が在ると信じて、これに基づいて実行して、この虚偽の世界に大革命が起らざるをえないのである。


 汝、神は唯一なりと信ず、かく信ずるは善し、悪魔もまたかく信じて戦慄(おののけり)
 と使徒ヤコブは言うた。神は在りと信じて行うこと、そのことが真の信仰である。我らは信仰問題と称して、種々のこみいりたる問題に没頭し、瞑想し、讃嘆するをもって信仰的生涯を送ると称するをやめて、簡単にして明瞭なるこの真理の実現に努むるならば、我らの信仰はさらに明瞭となるに加えて、さらに深遠になるであろう。今や余の生涯もすでに子午線を過ぎて、蔭影の少しく傾くに到りし頃、余はますます信仰の単純を求めて止まないのである。


 今や全世界は修羅の巷と化しつつある。しかし、神は愛である。万事ことごとく善に終らざるを得ない。


(大正三年(1914)八月十日)
『聖書之研究』百六十九号