内村鑑三 「摂理の神」

内村鑑三 「摂理の神」


「汝等公道(おおやけ)を茵蔯(いんちん)に変じ、正義を地に擲(なげす)つる者よ、昴宿及び参宿を造り、死の蔭を変じて朝となし、昼を暗くして夜となし、海の水を呼びて地の面に溢れさする者を求めよ、その名はエホバという。」(アモス書 五章七、八節)
(※新共同訳 同箇所:裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ。すばるとオリオンを造り/闇を朝に変え/昼を暗い夜にし/海の水を呼び集めて地の面に注がれる方。その御名は主。)


「二羽の雀は一銭にて售(うる)に非ずや、然るに汝等の父の許なくば地に隕ること有らじ。汝等の髪また皆数えらる。故に懼るるなかれ、汝等は多の雀よりも優れり。」(マタイ伝十章二九、三十節)
(※新共同訳 マタイ十章二十九〜三十一節:二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなた方の父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。)


神が神である以上、その意志が行はれねばならぬ。その聖旨(みこころ)が成らねばならぬ。神は完全なる者であらねばならぬ。その意志もまた完全であらねばならぬ。その完全なる意志が行われてこそ彼は神であるのである。我らは完全なる意志の実現によって、神の存在を認むるのである。
そして神の聖意は天然、歴史、並びにわが身において行われつつあるではないか。まず天然について見んに、天然に莫大の破壊力あり、万物元始の混沌に帰るの可能性多きにかかわらず、秩序と善美とはその内に現われつつあるではないか。
もし「暴力これ力なり」であるならば、地上に花や鳥の現われようはずはなく、岩と水と空気とのみが全地を占領しおるべきはずである。地が徐々として美化されたということ、その内に蘭や石竹や薔薇のごとき繊美なる花が現われて蕃殖するということ、そのことがいわゆる盲目の天然力に反(そむ)いて高い理想が行われつつあるとの証拠ではあるまいか。
強い者の勢力が徐々に減じて、弱い者の勢力が次第に増して行くということは、霊は物と肉とに勝ち、神の聖旨が終に完全に行わるるに至るべしとの最も確かなる証拠ではあるまいか。天然物進化の途(みち)を辿って、我らは聖書に「狼は羔(こひつじ)と共に宿り、豹は小山羊と共に臥し、犢、牡獅子、肥たる家畜共に居りて小さき童子に導かれん……そは水の大洋を覆うが如くエホバを知るの知識地に充つべければなり」と読んで少しも不思議に思わないのである。(イザヤ書 十一章九節)
そして天然界において行わるることが人類の社会においてもまた行わるるのである。社会は圧制に始って自由に終らんとしつつある。これ当然であるようで実は甚だ不思議である。勢力は常に圧制家の側に在る。これに対して自由は常に微力であって、もし生存競争が勢力の問題であるならば、自由の勝利は少しも見込みがないのである。
しかるに人類の歴史において、弱い自由が常に勝って、強い圧制が常に負けたということは大いなる不思議といわざるを得ない。自由または正義に神が味方し給うがゆえに、その勝利を見たのであって、もし自然の成り行きに任かしたならば、暴力が永遠に勢力を揮(ふる)って止まないであろう。人類の歴史は正義実現、自由発達の歴史である。そのことそれ自身が神の聖旨が行われつつある何よりも明らかなる証拠であると思う。ベツレヘムの牛小屋に生れし弱き援けなきイエスが、終に人類の王として崇めらるるに至ったということで、神の存在を確かむる事ができると思う。
そしてすべて正義のために戦って勝った者はこの感を懐(いだ)かざるをえない。不信者といえども「天佑」を語るが常である。人力以外のある力が彼らを助けた事を知るからである。
ことにキリスト者はこの感を深くせざるを得ない。真のキリスト者は常に世の弱者、社会の少数者である。パウロのいわゆる「世の汚穢また万の物の塵垢」である。彼は政府や社会に賎しめらるるのみならず、キリストの名をもって呼ばるる教会にまで嫌われまた斥(しりぞ)けらるるが常である。世に憐れなる者とてキリストの真の弟子のごときはないのである。
しかるに彼の首がついに擡(もた)げられ、世はついに彼の実力を認めざるをえざるに至る。実にこんな不思議はないのである。
彼の場合においていわゆる生存競争は少しも働かないのである。もし天然力以外に力がないならば、彼が絶滅せらるるのが当然である。彼に敵の「営塁(とりで)を破るほど」なる戦の器はあるが、それは肉に属(つけ)る器ではない。神が彼に在りて戦い給うにあらざれば、彼の勝利は不可解である。政権と金権とを盛んに利用して教勢の拡張を計る欧米のキリスト信者にはこの超自然的勢力を認むることはできない。
しかし、真の福音はかくのごときこの世の勢力をもって世に勝ったものでない。使徒ヨハネはいうた「誰かよく世に勝たんや、我らをして世に勝たしむるものは我らの信なり」と。そして、この信力こそ神より来る力であって、この力を身に実験して神の存在ならびに活動を実感するのである。
神は実際の世界において今もなお日ごとに活動し給う。人と天然とは彼の目的を破るかのごとくに見えるが、神の目的は成就して人の目的は失敗に終る。深く探れば、天然は神の聖旨(みこころ)の表現(あらわれ)であって、歴史は彼の聖業(みわざ)の成り行きである。神は無しというは宇宙人生のごく浅い見方である。何よりも確実なるは神の在し給うことである。
                 (『聖書之研究』一九二四年(大正十三年)十月)