山上の垂訓を繰り返し読んでいると、
・隠れたところまで知悉し給う神
・神の愛が根底に働いていること
という観点が透徹していることにあらためて気付く。
ニュッサのグレゴリオスの雅歌講話を読んでたら、箴言とコヘレトと雅歌は、三つとも実は深いつながりがあって、箴言で道徳を学び、コヘレトで感覚的な事物への欲求がむなしいものだと理解して肉的な欲求を脱出し、雅歌で神との合一に至る、というストーリーになっているのだと説き明かしてあって感嘆。
「聖霊は私どもの悩み苦しみを皆知っていて、そして慰めてくれる。」 (矢内原忠雄)
「神の秩序は善である。
神の意思は愛であるということを我々が信ずる。
摂理の神・経綸の神は同時に恩恵の神である。」
(矢内原忠雄)
「神の摂理、神の経綸の中にあってはすべてのものが偶然ではない。
無秩序ではない。
神は宇宙全体に秩序を立てておられる。
歴史全体に筋道を立てておられる。」
(矢内原忠雄)
「神の声を聞く機会は日常生活の中にたくさんあるが、心を平生神にむけている者だけが、それによって神の教えを受けるのである。」
(矢内原忠雄)
「信仰は儀式や制度の問題ではなく、心の問題である」
(矢内原忠雄)
矢内原忠雄が、己の罪の解決によって苦難よりの解放を求めるのが生命の道であり、罪の問題の棚上げは死の道だということを、エレミヤ書の解説の中で述べていて、感慨深かった。
矢内原忠雄が、イザヤは言葉によってキリストを預言し、エレミヤは性格と生涯によってキリストを預言した、ということを述べているのを読んで、なるほどなぁと思った。本当にそうかもなぁ。
パウロがロマ書の中で言っている「神の義」とは、抽象的な観念ではなく、生き生きとした神から与えられた新しいいのちであるということを、矢内原忠雄が言っていて、なるほどなぁと思った。
エレミヤ書15章の解説の中で、矢内原忠雄が「賎を捨てて貴を出だせ」ということを述べていて、なるほどなぁと思った。
つまり、卑しい言葉を捨て、尊い真理の言葉をこそ語るように、という意味である。
「遺言は、死期に臨んで言うだけのものではない。
平生くりかえしたる教訓、
その人の根本的主張、
これを遺言と思わねばならない。」
(矢内原忠雄)
「国に滅亡を招きたる根本原因は、国民の罪である。
国の復興を妨ぐるものもまた、国民の罪である。」
(矢内原忠雄)
矢内原忠雄が、偶像とは、狭い意味で言えば金や銀や木でつくったものだけれど、広い意味でいえば人間がつくったものすべて、つまり政治制度や芸術や文化やそういったものが、究極的にまで人間を救い平和をもたらすと勘違いした時に、それが偶像崇拝である、ということを述べてて、なるほどーっと思った。
「言葉を知っているということと、
その言葉の命ずるとおり行なうということとは、
大きな違いがあるのである。
何千年来、何千億とも数知れぬ人々がこの言葉を知っていた。
しかし、この言葉のとおり行った人は、
おそらく指折り数えるほどしかなかったのではあるまいか?」
(永井隆)
「第一、人生唯一の目的たる神を知ること。
第二、神を知るためにキリストを知ること。
第三、キリストを知るために聖書を探ぐること、殊に旧約聖書を探ぐること。
第四、キリストの旨に従うこと、即ち十字架を担うて彼に従うこと。」
(内村鑑三「人生の目的とこれに達する道」)