雑感

あるがままの自分であること。
そのあるがままの自分が、神から愛されているということ。
それゆえに、自分もまた神を愛し、人を愛すること。

このことはとてもシンプルなことで、言葉にしてみると実に当たり前のことなのかもしれないけれど、この世では実にとても難しいことのように思う。
本当は至極簡単なことなのかもしれない。
しかし、それを至難にしてしまういろんな仕組みや働きがこの世にはあるのだと思う。

とかく、競争社会の中では、なるべく自分がすぐれた者となり、そうしなければ人から認められも愛されもしないと思いがちである。
さらにまた、「すぐれた」という時の価値観が、その人自身の徳や卓越性というよりは、学歴や業績や肩書や財産という尺度にも今日の社会ではなりがちである。
その中で、人は、気づかぬうちに、自分と他人を比べたり、社会の尺度で自分を見たりして、あるがままの自分が愛されるということも、うっかり忘れ果ててしまうのだと思う。

イエス・キリストという人の不思議なところは、愚直なまでに、ひたすら愛だけを説き続け、身をもって愛を生きたところである。
あれこれ人に注文をつけることなく、あるがままに愛し、赦し、癒した。

二千年以上前に生きたイエス・キリストが、今も私にとって、なくてはならぬ存在であるのは、この、あるがままの自分が愛されているということを、イエスのみが、本当の意味で感じさせてくれるからなのかもしれない。

もちろん、家族やごく親しい友人などは、あるがままの自分を認め愛してくれているとは思う。
しかし、なんといえばいいのだろうか、言葉にはならない、言葉を超えた、愛というものは、やはりキリストを通じてしかありえないものではないかと思う。

もちろん、さまざまな形で、なんらかの道を通って、キリストの愛が、さまざまな現れ方をすることはあると思う。
しかし、それは要するに、キリストの愛という気がする。

エスをキリストと信じて、その愛を受けいれる。
ただそれだけのシンプルなこと以外、救いには必要がない。
そして、あるがままの自分を神が愛してくださっているように、自分もまた、人を愛する。
お互いにそのように愛し合うところに、神の国がある。

あまりにも簡単な教えだが、なんとこのことの実現することの難しいことだろうか。
人類はいまなお、その途上にあり、そしてほんの少しだけ実現しつつあるだけのようにも思う。

愛などとたやすく口にすると、特に日本の社会では、気恥ずかしく思えるし、あまりまともに聞かれない気もするが、しかし、今の日本にともすれば欠けがちなことや困っている問題の根源というのは、要は愛の不足なのではないかと思う。

私の場合は、シンプルで愚直なキリストのメッセージに立ち帰る時に、はじめてしっくりくるし、さまよっていた寒い外のところから充実したあたたかな家に帰ってきたような、そんな感じがする。


2、

昔は、「罪人」という観念が、どうもしっくりこず、よくわからなかった。

そらあ、自分もいくばくかは悪いことをしたこともあったかもしれないが、世の中には自分よりもはるかに悪いことばかりしている人々は大勢いるし、自分などたいして悪いこともしていないのにどうしてこんなに苦労ばかりだろう、と思うこともよくあった。

キリスト教が「罪」と「罪の赦し」を強調するのも、いまいちよくわかるような、わからない気がしていた。

しかし、最近、若干、少しだけわかるようになった気がすることがある。

というのは、罪というのは、人との比較ではなく、ただ神と自分との関係のことであり、他とは比較を絶する絶対の領域のことだということである。

そして、罪というのは、どういうことかというと、神から離れること、もっと言えば、神が万物や人を見る時のような目をもって、万物や人を見ることができないこと、神のまなざしから離れ背くものの見方をすることだということである。

神においては、いかなる人も、人格として絶対的な価値を持ち、一人一人の人格の尊厳を認め愛している。
しかし、人間はそんなことを忘れ、他人の人格や尊厳を無視したり忘れてしまいがちである。

たとえ法律上、また世間一般的なマナーや通念では、何の問題も起していなくても、もし内面において、他人の人格を無視したりかろんじていれば、それは罪ということになる。

この観点から見る時、自分は罪人以外の何ものでもなかったし、なんと神の御心に背いた罪人だったことかと思わざるを得ない。

これらも、繰り返し、聖書を読んだり聞いたりする中で、やっと少し目が見えるようになっただけで、まだ見えてないことも山のようにあるのだと思う。

そしてこのような罪人の自分を、先にキリストが愛してくださったからこそ、罪人とも思っていなかった自分が、キリストの愛のまなざしにいささか気付くことができるようになったのだと思う。