手島郁郎 「マタイ伝講話 第六巻」

マタイ伝講話 (第6巻)

マタイ伝講話 (第6巻)


今日、手島郁郎『マタイ伝講話』の六巻を読み終わった。
全六巻なので、これで全巻読破したことになる。
本当にすばらしかった。


六巻は、マタイによる福音書のラストの方の、ゲッセマネの祈りや十字架の道行から最後までだったのだけれど、はじめてそういう意味だったのかー!とわかることも多々あり、本当に良い解釈や解説でありがたかった。


日々に最後の努力と思って努力し、「今日が最後、今日が最後」と、神の前にいつでも帰っていけるように努力することが本当に生きること、という話は、なるほどーっと思った。


また、


「愛とはすべてを知ること、すべてを知るとは、すべてを許すこと」


という言葉と、イエス・キリストが最後まで自分を裏切るユダを「友よ」と呼び、愛していたことに、あらためて思い至り、とても胸を打たれた。
ユダヤは、「この一人」とマルコによる福音書では表現されていて、つまり弟子の中でも第一人者だったそうである。


ユダとペテロの悔い改めの違いの話も興味深く、どちらもキリストをいったんは裏切ったが、そのまま立ちかえらなかったユダと、立ち帰ったペテロの違いということは、とてもためになった。
ユダのように死んでお詫びをするということよりも、ペテロのように己の至らなさの痛みや嘆きのなかでそのままで再びみもとに立ち帰ることこそが、信仰というものなのだろう。


また、マルティン・ブーバーの、「困難、それはあなたが乗り越えるためにある。」という言葉も心に響いた。


ゲッセマネの祈りについて、キリストがあれほどに祈っていたのは、自分の十字架の道行が無事に成し遂げられるように、途中で殺されたり中途で終ってしまうことがないように、犬死とならぬように、という願いの祈りだった、という解釈を著者は示していて、今までそのようには考えたことがなかったので、とても胸を打たれた。


人は、真っ直ぐに自分の死を目標にして、生きていくべきだという話も、心にしみた。
魂の力をつくる宗教教育、魂の教育が今の日本には欠けがちだというのも、本当にそのとおりと思う。


著者が言うには、
「どうぞ、つぎの瞬間はどう過ぎ越せるか、教えてください。」
と祈り、全てを神に聴き、神に従い、神と共に生きるのが信仰ということだそうである。
各自が神の子である自覚を持つに至り、その各自がキリストに神の子として仕えていくことが、信仰というものだそうである。
なかなか、その域には、自分を振り返ると、到底なれていない。


しかし、「祈りとは、神の心を求めることであり、自分の心を押し付けることではない」という言葉は、とても心に響いた。


さらに、著者が言うには、政治は民主主義でも良いが、宗教は民主主義的であってはならない、横並びの平凡な安全を求めるようなものではなく、偉大な魂に聞いてこそのものだという話は、とても面白かった。
民主主義の束縛から離れることが、宗教においては大事だという。
最高のものに従って導かれてこそ、宗教だというのは、そのとおりと思う。
「私は一筋に神の声を聞いて生き、生き抜きます。普通の人と違った道行をします。」と思ってこそ信仰だと著者は述べるが、たしかにそれぐらいの覚悟があってこそなのかもしれない。
「大事なことは、この時代から解放されることです。この誤った時代から抜け出して、エクソダス出エジプト)することです。そして短い人生ですけれども、躍動するような充実感に生きとうございます。」
という著者の声は、俗耳には受け入れがたいものだろうけれど、たいしたものだなぁと感嘆した。


また、十字架の心とは、天を見上げ、人の罪を見ないものだった、というのはなるほどと思った。
さらに、十字架の戦いとは、神殿の幕が切り落とされたことで象徴されているように、形式的宗教の打破だった、ということも、なるほどと思った。


現代人の俗耳には一見受け入れがたい言葉の数々が、そうであればこそ、とても貴重だと思う。


自分はどういう人生を送るか、何に向かって進むか、真剣に考えることが大切だというメッセージも、なるほどと思った。


著者の手島郁郎さんは、もう三、四十年前にお亡くなりになっているけれど、本当に真剣に真摯に生き抜いた生涯だったのだろうと思う。


この全六巻のマタイ伝講話にめぐりあうことができ、読むことができて本当に良かった。
また、いつか再三再四、読み直したい。