- 作者: 矢内原忠雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1978/05
- メディア: 単行本
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矢内原忠雄『詩篇』を読んだ。
聖書の詩篇についての矢内原忠雄の解説書である。
高校の頃に図書館で見かけて、いつか読もうと思い、やっと読むことができた。
何か所か、とても心に響く箇所があった。
詩篇の真髄について、説き明かしている好著だった。
やはりすごい信仰と読みだなぁと感じた。
詩篇の120、121、122は「天国への行進歌」、123、124、125は「人生の戦闘歌」、129、130、131は「神の国の民の性格」とこの本の中で矢内原が述べていて、興味深かった。
そういう観点から、また読み直してみたい。
「祈りは常に新しき出発である。」
「人生の意義は哀訴にあるのではなく、神に在りての歓喜にあるのである。」
「真理を簡単に生きる。そこに人生の力と美とがある。」
「重要なのは信仰の戦の経験である。」
「祈りは生にいたる呼吸の門である。祈っているところに希望がある。」
などの言葉も感銘深かった。
神に求め祈ることは、人生に意味にコペルニクス的転回をもたらし、人生の問題の過半はすでに解決したことになる、という意味のことを、矢内原忠雄が詩篇90編の解説で述べていて、それもなるほどなぁと思った。
矢内原忠雄が、詩篇十一篇一節の「われエホバに依り頼めり」という言葉を、ダビデの経験してきた人生観の結晶と述べていたことも、そのとおりと思った。
「我はエホバに依り頼む。これをばわが人生のすべてたらしめよ」という矢内原の言葉も心に響いた。
詩篇五十一篇の解説のところでの、神の愛と人の罪は車井戸のつるべのようなものだ、というたとえも面白かった。
人にとっての神への愛とは、神を避け所とすることだけであり、つまり神の名を知っていることであり、それはすなわち神が私の名を知り給うことであり、神はこの信仰を認め給う、という話も、なるほどーっと思った。
神を絶対に義とすることも、うならせられた。
神の真実とは、不義なるものを義とし給うことである、つまりキリストの十字架である、というのも、なるほどーっと思った。
私たちの心が、神の御手のわざをおもうようになれば、救いは私たちに近づいている。
自分のことだけでなく、神のことを考え、自分の小ささでなく神の大きさを、自分の弱さではなく神の強さを考えさせられるようになったら、聖霊が働いたのであり、救いがそこにある。
という話も、感銘深かった。
エホバから出た寒暑であることに気付く、という話も。
また、折々、ゆっくり読み直したい。
詩篇のエッセンスに触れるために、とても良い一冊と思う。
「祈りは生にいたる呼吸の門である。
祈って居るところに、希望がある。
たとい主観的に彼は「死んだも同然」であっても、
彼は神の御手に抱かれて、
その中でもだえているのである。
彼を閉じこめる苦難の厚い壁の外を、
神のいつくしみと真実が更にとりかこんでいるのである」
(矢内原忠雄)