予定説について

昨日、矢内原忠雄のエペソ書講話を読んでいたら、予定説(矢内原忠雄は「預定説」と書いている)について、なるほどーっと思うことが書いてあった。

矢内原によれば、予定説というのは、神の計画・経綸があって、すべての物事には意味があり、目的がある、ということらしい。

だが、その予定計画というのは、おおまかなグランド・デザインであり、おおまかな事業計画であって、目的や物事の起るおおまかな順序が定められているだけであり、細部やこまかな順序はいくらでも変更可能である、と。

つまり、人間の自由意志にもとづく行動や祈りで、細部やこまかな出来事の順序はいくらでも変化するということである。

なるほどーっと思った。

これだと、神の計画・経綸ということと、人間の自由意志や努力とが、矛盾しないし、後者の意味がなくなるわけではない。

まったくもってそのとおりと思った。

聖書を深く学び、おおまかな方向性をしっかり把握しつつ、細部においてはあらん限りの努力をし、なるべく神の御旨に沿って生きるのが、人間の生きる意味というものだろうか。