内村鑑三 「近代人」

内村鑑三 「近代人」



 彼に多少の智識はある(主に狭き専門的智識である)。多少の理想はある。彼は芸術を愛し、現世を尊ぶ。彼はいわゆる「尊むべき紳士」である。


 しかし、彼の中心は自己である。近代人は自己中心の人である。自己の発達、自己の修養、自己の実現と、自己、自己、自己、何事も自己である。ゆえに、近代人は実は初代人である。原始の人である。

 
 猿猴が始めて人と成りし者である。自我が発達して今日に至つた者である。ゆえにキリスト者ではない。

 自我を十字架に釘けて己れに死んだ者ではない。キリストの立場より見ていわゆる「近代人」は純粋の野蛮人である。


 ただ自己発達の方面が違ったまでである。近代人とは絹帽を戴き、フロツクコートを着け、哲学と芸術と社会進歩とを説く原始的野蛮人と見て多く間違はないのである。


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 彼は自己の欲望を去って神の聖業に参与せんとしない。かえって神をして自己の事業を賛成せしめんとする。

 近代人はキリストの下僕ではない。その庇保者である。彼は彼の哲学と芸術と社会政策とを以てキリストを擁立んとする。

 すなわち、彼はキリストに救われんとせずして、キリストを救わんとする。

 
 彼は想う。キリストは彼の弁護なくして現代におけるその神聖を維持するあたわずと。いわゆる「近代人」は自己をキリスト以上に置きて彼を批評する。


 言う、「我れもしキリストの下僕となるならば、我は研究の自由を失い、我が哲学は滅び我が芸術は死す」と。


 近代人は堕落せるアダムと同じく、自身神とならざれば止まないのである。まことに彼はアダムの裔である。善悪を識るの樹の実を食らいて目開らけて神の如く成りし者である(創世記二章を見よ)。


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 自ずからキリストの下僕たる事を廃(や)めて、しかもキリスト信者の名を負わんと欲す。いわく、我もまたキリスト信者なりと。キリストの十字架はこれを避けんと欲す。しかもキリスト信者の名誉と利益とはこれを受けんと欲す。


 余輩は言えり。「近代人は自己中心の野蛮人なり」と。彼は自己を中心としてキリストに従わずしてキリスト信者たるの利益に与からんと欲する者である。