クシュナー 「ユダヤ人の生き方 ラビが語る知恵の民の世界」

ユダヤ人の生き方:ラビが語る「知恵の民」の世界

ユダヤ人の生き方:ラビが語る「知恵の民」の世界




とてもすばらしい本だった。
ユダヤ教について、とてもわかりやすく、かつ深い知見が盛り込まれた、最良のユダヤ教の紹介および解説の本のひとつだと思う。


著者が言うには、ユダヤ教は生きること、いかに生きるかについての教えであり、真の人間になるためにどうすれば良いかの包括的な生活の体系だという。
ただし、それはユダヤ教の場合、抽象的な理論や神学ではなく、具体的な行事や習慣を通してそのことが実践されるし、何よりも「ユダヤ人共同体の一員」であることが重視されるという。


ユダヤ人共同体というのは、ブリート(契約)を神と結んだ具体的な共同体である。


契約というのは、神と人との円熟した関係であり、互いの責務についての決まりごとだという。
つまり、人間は善を見分け選ぶことができ、またそう行うことが神への責任であり、一方、神はそのような責任をきちんと果たしている人間に対し、生命・健康・食物・愛する人を与えるという責任がある、ということだそうである。


ユダヤ人は世界の民族の手本として、神に選ばれ、契約を結んだとユダヤ教では考える。
聖書は、それゆえに、ユダヤ人にとっては長い先祖たちの、いわば家族のアルバムであり、神からの、また神へのラブレターのように読むものだという。


一般的に他の宗教では、この世界を聖と俗の二つの領域に分けるが、ユダヤ教ではそうではなく、聖なる世界と、その途上にある世界、という風に考えるそうである。
そして、当たり前のものに聖なるものをもたらすこと、当たり前の時間を聖なる時間にすることを重視するそうである。
そのために、安息日や食物規定があると著者は言う。
これらの規定は、神の好意を勝ち取るためではなく、人間として成長をするために、人間として成長することを選んで生きることを理解するために、安息日や祭日のたびに歴史的な意義や神とイスラエルの関わりを想起し、食物規定の背後にある他の生命への配慮やいのちの恵みへの繊細な感覚を思い出すのだという。
さらに、結婚も含めて、ユダヤ教の一見厳しいさまざまな規定や戒律は、人間における本能を聖別するためにあるという。
ユダヤ教においては、人間の性欲や食欲などの衝動は、それ自体としては良くも悪くもなく、いかに用いるかによって良くも悪くもなると考え、さまざまな律法による規定はそれをコントロールし、聖別するためにあるのだという。
つまり、人間が持って生まれた性質を、崇拝でもなく抑圧でもなく、聖別することが、ユダヤ教においては重視されるという。


また、ユダヤ教においては目的は神であり、人間は幸せのために励むのではなく、善のために励むことが教えられる。
つまり、目的は幸福ではなく、善だという。


神は、この世界に、創造者・啓示者・贖い主という三つの関わり方で関わり、そのどれをも大切にし、それらをそれぞれ讃える行事があるそうである。


ユダヤ教徒とは、エジプトの奴隷状態から出エジプトを果たしたモーゼの物語を直接受けとめた人々、という定義も面白かった。


また、出エジプト記の三十三章のところで、神は後ろ姿が見える、という箇所があるが、著者はこれは、実際に後ろ姿が見えたということではなくて、神はそのものは姿が見えないが、その行動や働きが通っていった後に、その行動や働きとして見える、ということを意味していると解釈しており、とても納得がいった。


著者は、神は、人間と無関係にどこかにいることを観察できるようなものではなく、私たちが正しく困難なことを行うその時に共にいる存在だという。
神が何かをしてくれるから自分は何もしなくてよいと考えるのではなく、神が貧病苦に苦しみ人々を助ける存在であるのだから、人間は神の似姿として貧病苦の人々を助けねばならない、と考えるのがユダヤ教だという。
そして、自分とその周りに何かが起こった時に、その中に神を認識できるという。


神を信じるとは、その存在を肯定することではなく、起こることになっているものの、いまだ起きていないことが、いつか起こると信じること。
という言葉も、なるほどーっと思った。


また、無神論者とは神の存在を否定する人のことではなく、道徳を無視する人のことだという著者の解説もとても心に響いた。
「私の選択は重大でしょうか?人生の中身は本当に意味があるのでしょうか?」という問いこそが最も重大な問いであり、これに対してYESというのがユダヤ教の信仰であり、この問いにNOで答えるのが無神論だということは、通常の信仰や無神論通俗的な理解と異なり、私にはとても心に響くものがあった。


あと、とても考えさせられたのは、スーパーマンのパワーを無効化するクリプトナイトを例にとって、著者は、神にもクリプトナイトが二つあるというたとえ話をしていた。
つまり、神におけるクリプトナイトとは、自然法則と人間の善悪の自由意志の二つである。
神は自然法則に則った世界を選択して創造したため、自然法則に安易に介入できないし、人間が自分の自由な選択で善を行うことを欲して自由意志を与えたため、人間の自由意志にも介入できないのだという。
つまり、自然界には道徳がないし、人間は自分の意志で何でもできる。


だが、長い目で見れば、ヤコブやヨセフの物語のように、神は悪を善に変える力を持つ。
つまり、さまざまな苦労を経ることで、人の気持ちがよくわかり、素直に謝り、人を大事にできる心を持つように人間は成長することがある。


また、神は、人間に勇気や慰めを与える。
神の力は無限の力である。しかし、神の力は制御する力ではなく、可能にする力である。
神の力は物事を統制する力ではなく、物事を可能にする力である。


つまり、人間の意志や行動に介入して統制する力ではなくて、人間が何か困難に立ち向かい、正しいことを為そうとする時に、それを支える勇気や癒しをもたらす、そのことを可能にする力である、というこの本のメッセージは、とても納得がいき、心に響いた。


ホロコーストも、神がなぜあんなひどいことをしたのかと問うのは筋違いで、あれは人間がなしたことであり、「人類は互いにどう扱うか決定する自らの自由を、どうしてこれほどひどく悪用できたのか?」と問うことが正しい問いだという。


また、神のゆるしとは、神の怒りが静まることではなく、自分の問題にもかかわらず、神の御許で受け容れられていると感じるようになること、ということもなるほどーっと思った。


「決してあきらめるな。あなたの魂が実現させたいと切望するものに成し得ないことはない」
というのがユダヤ教のメッセージだという話も、とても心に響いた。


人間である高貴さの証のひとつは、自分の行動に責任をとれることであり、そうでないのは人間のなりそこないという話も、考えさせられた。


ユダヤ教では、「イエッェル・ハラァ」(悪への衝動)と「イエッェル・ハトーヴ」(善へ衝動)という、善悪の二つの衝動がどちらも人間には備わっているという。
どちらだけでも人間ではなく、前者についても根絶するのではなく、制御し、聖別することが大事だという。


間違いを犯すことができ、自分の間違いを認識でき、間違いを悔やみ、学び、修正できるところに、人間の他に類のない特徴があるとユダヤ教では考える、ということも、なるほどと思った。


ヘブライ語の罪を犯すという意味の言葉は、目標を外すという意味の言葉でもあるそうである。


また、ユダヤ教における祈りは、何かを願うよりも、むしろ感謝や崇敬を示すことだという話も興味深かった。
ヘブライ語で祈ることは、右脳を活性化する、という話も興味深かった。
さらに、ユダヤ教においては、トーラーを学ぶこと自体も祈りと考えらるそうである。
典礼は結びつけ、神学は分離させる」、つまり、難しい神学より、実際に大勢でシナゴーグに集まり、みんなで祈ることをユダヤ教は重視するそうである。


「神について語ることが神学であり、神を体験することが宗教である」というブーバーの言葉も、とても心に残った。


反ユダヤ主義に関して、自分自身を憎んでいる人々や不安定な人々は、何かを投影して他を憎みやすい、特に社会の中のマイノリティにそうした憎しみを向けやすい、という話も興味深かった。
さらに、ユダヤ人の場合、著者が言うには、律法という道徳と良心を述べているところが煙たがられたり、常に社会変革や社会改革の動きをユダヤ人が率先して行ってきたことが危険視されたり憎まれたこと、キリスト教特有の教義などが、マイノリティであることに輪をかけて反ユダヤ主義が歴史的によく起こった理由としてあげていた。
人間をひとくくりにして偏見を持つことは間違っているし愚かであることを著者は指摘しており、それは本当にそのとおりと思った。
また、ユダヤ人自身の態度として、起きた不幸を克服するには、正常な状態に戻ることであり、もはや人に同情を求めないことが大事だということが述べられているのも、胸打たれた。


著者は、キリスト教ユダヤ教の関係について、どちらもお互いを必要としており、キリスト教一神教がどのようなものであるかをチェックするために、そしてユダヤ教多神教の世界において一神教を世界に広めるためにキリスト教を必要とし、肯定できるという。
著者は、イエスパウロもまた、神が多神教の世界に対して一神教を伝えるために選んだ存在だったと受けとめているという話も、興味深かった。


ユダヤ教の究極の目的は、この世界を神が創造した時に、神が想い描いたような、そういう世界に造りかえることだという。


それには、神に任せて自分は何もしない、という態度ではなく、人間自身が、善を選び、善を行うしかないのだという。


人間は死を恐れているのではなく、本当に生きてきたとは言えない人生を恐れている。


聖なることとは、ごく当たり前の時間を聖ならしめることである。


人に関係しながら、生き方の中で、聖なるものを生み出すこと。


それがユダヤ教だという。


ユダヤ教の実践は、本を多く読み、自分自身の共同体に入り、人との関わりの中で、善を実践すること。
そう言う著者のメッセージは、とてもわかりやすかった。


私たちが証人となる時、神は主であるが、私たちが証人になることをないがしろにする時、神は主でない、というイザヤ書の43章10節に関わる注釈の話は、非常に考えさせられるものがあった。


なかなか、ユダヤ人に生れつかない限り、ユダヤ教というのは縁遠い宗教だけれど、ユダヤ教のエッセンスは、この本を通じて、少しわかった気がする。
本当にすばらしい宗教と思う。
他の宗教の人も、なにがしか、そこから学ぶことがあるのではないかと思った。


多くの人に読んで欲しい名著だった。