プレガー 「現代人のためのユダヤ教入門」

現代人のためのユダヤ教入門

現代人のためのユダヤ教入門

  • 作者: デニスプレガー,ジョーゼフテルシュキン,Dennis Prager,Joseph Telushkin,松宮克昌,松江伊佐子
  • 出版社/メーカー: ミルトス
  • 発売日: 1992/06
  • メディア: 単行本
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とても面白かった。
内容は、ざっと以下のようなもの。


ユダヤ教は、神の存在を信じるかどうかより、トーラーの実践が大事だとされる。
人は、神への疑問を持ってもよく、自分で問い続け、調べ、神と対話していくことは、ユダヤ教においては肯定される。
むしろ、絶対的確信は狂信につながり、忌むべきこととされる。


しかしながら、ユダヤ教においては、神の存在は当然肯定され、大切にされる。
なぜならば、神がいなければ、理性や感情以上のモラルの根拠がなくなるからである。
シナイ山でモーゼに啓示された神の教えこそ、道徳の客観的な根拠である。


ただし、神への信仰さえあえれば、善い人や善い世の中になるとはユダヤ教は考えない。
信仰に加えて、モラルの尊重と理性の使用が必要であり、したがってトーラーの学習と実践が重視される。


善人とは、他人を傷つけないだけの人ではなく、積極的に善を追求する人のことであり、ユダヤ教はトーラーによってそのための道を示している。
トーラーは、再帰律法・倫理律法・聖性律法・民族律法の四つの要素を持つが、どれも人を善に進めさせるための大きな指針となり基準となる。


ヘブライ語で祈りを意味するヒトパレルという語は、自らの点検という意味であり、ユダヤ教においては、祈りは神に立ち帰り、トーラーの光に自分を照らしてみることでもある。


ユダヤ教は信仰より行動という立場であり、その点が、キリスト教の行動より信仰という立場と異なる。
パウロは律法を完全に守らないと呪いとなると述べているが、実際のユダヤ教の聖書やトーラーの中にはそんな箇所は全く存在しない。
おそらくパウロ申命記の二十七章二十六節を誤読している。
ユダヤ教においては、もともと人間は完全にトーラーを実践できない場合があることを考慮しているし、立ち帰り(テシュヴァー)によってトーラーを破っても贖われることが説かれている。
テシュヴァーには、罪を認め、心から悔悛し、トーラーを成就するために立ち帰るという三つのプロセスが必要だが、そうすれば神は許す。
そのことは、ホセア書十四章三節、レビ記二十六章四十から四十五節、申命記四章二十九節から三十一節などに記されている。
また、ユダヤ教は、神に対する罪は上記のことにより神により許されるが、人に対する罪はその相手が許し癒されない限り許されないと考える。


さらに、キリスト教は悪人を愛せと命じるが、ユダヤ教はそうは教えない。
ユダヤ教においては、悪には果敢に抵抗し、悪を社会からなくすことが説かれる。
悪人に対しては、公正であるべきだとは教えられるが、愛すべきだとは言わない。


また、詩編百四十五章十八節にあるように、神と人とが直接結びつくことを説き、媒介者を必ずしも必要だとは考えない。


さらに、マルクス主義は、ユダヤ教の世界を完成するという考えの、無宗教的な分派と言えるが、神を否定し、人間を至上の存在としたため、モラルを主観的なものにしてしまった。
マルクス主義は悪は経済から生じると考えるが、ユダヤ教は悪は人間の中から生じると考える。
マルクス主義は、自由は外的な束縛をなくすだけで達成できると考えるが、ユダヤ教は外的束縛と内的束縛の両方をなくさないと達成できないと考える。
したがって、革命で一挙に自由や善が達成できるとは考えず、一人一人が自分の内面に目を向け、善を実践し悪を慎み、人間として成長し善く変化することを重視する。
二十世紀は、いわば、モーゼとマルクスの論争の時代だったと言える。
マルクス主義は理性を万能としたが、理性とモラルは無関係であり、人間至上主義はモラルを主観化し、スターリン粛清などの悲劇を生み出すことを止めることができなかった。
モラルには倫理的一神教という根拠が必要である。


ユダヤ教唯一神教は、世界史を変えた。
キリスト教イスラム教・マルクス主義は、いわばユダヤ教の分派である。
しかし、ユダヤ教の倫理的唯一神教は、倫理と理性を無視する宗教的狂信主義とも、倫理の相対化や主観化を帰結する無宗教主義とも、どちらとも異なるものであり、そのどちらとも闘う。


シオニズムは、反ユダヤ主義の一種であり、大半のユダヤ人は到底受け入れることができない。


ユダヤ人の若者が拒否しているのは、「まやかしのユダヤ教」であり、本当のユダヤ教を知れば、そうではないはずである。


ユダヤ教は必ずしも排他的な宗教ではなく、歴史の上において、アリストテレススーフィーキルケゴールから学んできた。


「無知な人は有徳たりえない」
したがって、トーラーは学ぶ必要がある。


神が存在しないなら、人生の究極の意味はなく、善も悪もない。
人間は根本的に善ではないので、善を規定し、法制化する必要がある。
ユダヤの使命は倫理的唯一神教を広めることである、つまり、善悪の判断の根底にある神を破壊する企てと闘うことである。


といったことが書かれていて、なるほどーっと思った。


ユダヤ教というのは、本当に現代においても寄与することの大きい、とてもすぐれた宗教だとあらためて感じた。
他の立場からの応答や対話も、ぜひ聴いてみたいと思ったし、ユダヤ教についてさらに知りたいと思った。