今日は、青木新門さんの講演を聴いてきた。
映画の「おくりびと」ができるまでの本木雅弘との経緯などを話したあとで、映画の事実上の原作の『納棺夫日記』を青木さんが書いた頃の実際の体験を御話されていて、とても良い話だった。
特に心に残ったのは、以下の三つのポイントだった。
1、人をまるごと認める、その人の存在をあるがままに受け入れて認める力。
2、死を五感で実感すること。それが世界が光、すべてを受容する力に結びつくこと。
3、人生は不思議な縁でできていること。
青木さんは、満洲から引き揚げ、父はシベリアから帰らず、母は家から事実上出て行ってしまっていたので、祖父母や親戚のおじさんに育てられたそうである。
なんとか東京の大学に行かせてくれたそうだが、ちょうど安保闘争の盛んな頃で、ほとんど勉強に行かずに中退し、詩人や作家を目指していたが、手がけた喫茶店が倒産し、妻と子どもがいる中、葬儀社で働くようになったそうである。
今は九割の人が自宅外で死ぬが、当時は九割の人が自宅で亡くなっていたそうで、湯灌などは当時は親族がしており、葬儀社側がすることはまずなかったそうだ。
そんな中、そうした仕事をするようになったが、親戚のおじさんからは親戚の縁を切ると言われ、つらい思いをしたこともあったそうである。
妻からも仕事のことで文句を言われ、今日の仕事が終わったら辞めようと思い辞表も書いていたら、その日の仕事の先が、昔の恋人の家で、遠くにお嫁に行ったと聞いたから会うことはないと思い、はじめはいなかったのでほっとして仕事をしていたら、いつの間にか自分の横に座り、死体をきれいにする仕事をしている自分の額の汗をずっとハンカチで吹いてくれたそうだ。
その時、存在をまるごと肯定してくれるそのきれいなまなざしを見て、ほとんど何も話さなかったけれど、また仕事を続けていく力が出てきたという。
それから、服装や言葉づかいもきちんとし、目の前の仕事に打ち込むようになったら、周囲の態度が変わり、先生と呼ばれ、仕事先のおばあさんから自分の時にもぜひ来てください、と予約までもらったりし、人間はいかなる仕事でもきちんと目の前にあることに打ち込めば、自分も周囲も変わるのだと思ったそうだ。
そして、文学仲間で親友だった浄土真宗の僧侶の方が末期癌で亡くなり、その遺した文章に、癌だと告知された帰り道、世界の草木までもが輝いて見えた、と書いてあり、とても胸を打たれたそうである。
それまで、あまり気づかずに仕事をしていたが、亡くなった人の顔は、特に死後二〜三時間は、皆とても美しい安らかな顔をしていることに気付くようになったそうである。
ちょうどその頃、親戚の縁を切ったと言われたおじさんが危篤だという知らせがあり、嫌だと思ったが意識がないと聞いたので会いに行ったら、その時だけ意識が戻り、自分の手をとりながら、涙を流しながら「ありがとう」とそのおじさんが言ったそうである。
その時、自分も一切のわだかまりがなくなり、手をとっておじさんに謝り、感謝したそうである。
そして、おそらく、そのおじさんも、死を目の前にして、すべてが光輝くように見えていたのではないかと思った、という話をされていた。
青木さんがそのことで思うのは、おそらく、人を丸ごと認める力や、その存在をあるがままに認める力が、今の日本ではとても弱まっていて、それがさまざまな問題の根底にあるのではないか、
その理由は、死の実感がなくなったからではないか、ということだったそうである。
神戸でかつて起きた酒鬼薔薇事件の少年は、祖母が死に、死が何か知りたいからはじめは猫を殺し、それでわからないので人を殺したと供述していたそうである。
しかし、その死はすべて観念であり、頭の中だけで考えた死だった。
それに対して、ある知人の子ども、ちょうどその少年と同い年ぐらいの14歳の子が書いたという作文を読まれて、それはその祖父の臨終に立ち会い、心から祖父に感謝し、命の大切さを教えられたという文章だった。
このように、臨終に立ち会うことが大切なのに、今の日本ではともすればそのことがおろそかにされてないか。
2008年のアメリカの大統領選の最中、オバマさんは、六万人の集会をキャンセルし、祖母の危篤に馳せ参じたそうである。
青木さんは、その報道にとても驚き、これはすごいことだと思い、またそのオバマさんが勝ったことに、アメリカの価値観もだいぶ変わってきた、と感じたそうである。
しかし、まだ日本では、家族の臨終より、仕事を優先する方が偉いというような風土や空気があるのではないか、と話されていた。
なるほどーっと思う貴重な御話だった。
「人をあるがままに認める力」とその衰退という話は、とても考えさせられたし、本当に今の日本の問題の根底にあるのかもしれない。
すべてを点数や能力で分けてランク付けし、勝者と敗者に分けていった先には、誰もがあるがままには認められない世の中かもしれない。
人間に本当に生きる力を与えるのは、おそらくは、あるがままに認めるまなざしがある時なのだろう。
浄土真宗やユダヤ・キリスト教などは、本来の出発点は、そのことを説いて教えていたものだったのかもしれない。
臨終に立ち会うことや死を認めることや、社会のさまざまなものを切り分けて分離していくのではなく、生と死をよく見つめてこそ、このあるがままに認め受け入れる力というのも育つものであり、その力の有無こそ、自分にとっても他の人にとっても、人生の質やありかたを根本で左右するものなのかもしれない。
貴重な御話だった。