大智度論における自殺の扱い

大智度論を読んでいたら、自殺について以下のような箇所があった。
大智度論によれば、自殺は殺人ではなく、自殺の背景にある貪瞋痴の問題のようである。


「もし自分自身を殺すことによって殺人という罪深い行為が成立するというのであれば、そうではない。
『戒律書』には、「自殺には、殺人という罪深い行為が成立することはない」といわれている。
罪過というのは他者を苦しめることから生じ、福徳というのは他者のためになることから生じる。
自ら自分の身体を供養したから福徳があり、自ら自分の身体を殺したから殺人という罪過があるということではないのである。
それゆえ、『戒律書』には、「自ら自分の身体を殺しても、殺人という罪深い行為が成立することはない。愚痴・貪欲・瞋恚という罪があるだけである」
といわれるのである。」

(『大乗仏典 中国・日本篇 1 大智度論』(中央公論社)190頁)


この視点は、自殺を考える時に、ひとつ大きな参考になるのではないか。

というのは、一概に自殺が良いか悪いか、ということではなく、自殺そのものよりもその背後にある貪瞋痴の程度によって、また自殺の質も違うということになるからである。

自殺・自死と一口に言っても、中には家族や会社のために、保険金で他の人が救われて欲しいと思って自死する場合もあると聞く。
その場合も、もちろん今は自己破産の制度もあるし、なんらかの他の措置を探すべきとは思うが、貪瞋痴の、少なくとも貪と瞋は決してそんなに多くはない、むしろ逆の場合もあるかもしれない。

また、鬱病は一種の脳の中の物質の問題なので、本人にはどうしてもどうしようもなく、発作的に自殺してしまう場合もあるかもしれない。
その場合も、やはりあんまり貪瞋は大きくないのかもしれない。

一方、世の中には、残念ながら、心の中に大きな怒りを抱えて自殺してしまう場合もあるかもしれない。

一概に自殺というよりは、仏教においては死は終わりではなく、また六道に輪廻するか浄土に往生するか、いずれにしろ死は終わりではないので、その場合にどのような貪瞋痴があったか、そしてそれがどう来世に影響するか、あるいは貪瞋痴の煩悩にもかかわらず救われる本願念仏の縁があったかどうか、そのことがひとつの問題になると、この観点からは言えるように思う。