二年半ほど前、NHKの「こころの時代」というシリーズで、「親鸞の涙に導かれて」という番組があった。
http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/kokoro-355.htm
(以下はその番組を見た時の感想)
張偉さんという中国出身でいま名古屋の大学で教鞭をとっているという方が、「親鸞の涙に導かれて 国境を越えて響く念仏」というテーマで御話をされていた。
張偉さんは、野間宏の文学の研究を通じて親鸞聖人のみ教えにめぐりあったそうで、親鸞聖人の教えこそ、今日の世界で国境を越えて、海を越えて伝えるべき、仏教の真髄と受けとめておられるそうだ。
張偉さんは、文革の時に深い心の傷を負ったそうだ。
張偉さんの父は、日本語に堪能で、旧満州時代に日本人の経営する病院に勤務し、革命後も医者として働いていたそうだが、文革が起こると、日本人とかかわりが深かったということで徹底していじめ抜かれて、スパイとしてつるし上げられたそうである。
張偉さん自身もスパイの子としていじめられて、思わず父にどうして私はこんな家に生まれたのと食ってかかることがあったそうだ。
その直後、父が睡眠薬を大量に飲んで自殺をはかり、必死に張偉さんが呼び続けて大量に水をのませて命はとりとめ、その後も看病し、他の人からは親孝行な良い子どもだと言われたそうだけれど、自分の罪ははっきり自分が知っており、深い心の傷がのこったという。
また、自分の友人の祖父母が、自分とその友人の目の前で紅衛兵につるしあげられ、おじいさんは鼻の肉を削がれ、おばあさんは殴り殺されるのを目撃したこともあったという。
そうした、加害者の人々も、文革が終わったあとに、泣きながら謝っているのを見たことがあり、加害者もまた深い心の傷を負っているのをのちに見たという。
文革の体験は、人間の罪悪というものについて、張偉さんに深く考えさせたそうで、長く引きずっていたそうした心の傷をはじめて救ってくれたのが、親鸞聖人のみ教えだったそうだ。
張偉さんが言うには、親鸞聖人のみ教えというのは、以下のようなものらしい。
阿弥陀様の目から見れば、世間で言うところの「善人」も「悪人」も程度の差で、みんな悪人である。
そして、そのひとりひとり、どんな小さないのちにも、慈悲がそそがれている。
親鸞聖人は、上からの目線でそうした人たちを見るのではなく、同じ目線で、自分の痛みとして、悪人として生きている当時の人々の苦しみや悲しみを受けとめた。
加害者も被害者もともに心に痛みを持っていることを知り、加害者・被害者、あるいは敵・味方、という二分法ではなくて、共に悪人であり心に痛みのあるものでありその痛みを自分の痛みとして受けとめる、怒りを悲しみに変える、それが親鸞聖人の生き方であり、み教えだった。
念仏というのは、心の転換・人生感覚の転換である。
空間的にどこか浄土という別の場所に移動するという教えではない。
南無阿弥陀仏という念仏の中で、永遠無限の働きが自分に働いている、自分のいのちの背景に働いている、そう感じられていくようになる心の転換・人生感覚の転換が念仏であり、親鸞聖人の説いたこと。
親鸞聖人のみ教え、仏教というのは、大慈大悲であり、大慈大悲とは、すべてのいのちの悲しみを自分自身のこととして受けとめ、感じ、そして助けたい、救いたいと思う、その心。
なぜ親鸞聖人に心ひかれるかといえば、一言で言えば、親鸞聖人の思想が涙によって貫かれているからだ。
大略、そんなお話だった。
良い御法話を一席聴いたような、良い番組だった。