中部経典 勉強メモ
「聖求経」
「〜にのみ真剣さがあるのではない。私にも真剣さがある。〜にのみ努力があるのではない。私にも努力がある。〜にのみ念いがあるのではない。私にも念いがある。〜にのみ瞑想があるのではない。私にも瞑想がある。〜にのみ智慧があるのではない。私にも智慧がある。さあ、私は〜が、『みずからよく知り、感得し、成就している』と語った、その教えを感得するために努力しよう」
「法嗣経」
「君は私の法の相続者でありなさい。財物の相続者であってはならない。」
「正見経」
不善 十善戒に背くこと
不善の根 貪り・瞋り・愚痴
善 十善戒を守ること
善の根 貪りがないこと 瞋りがないこと 愚痴がないこと
四食 物質の食べ物、接触、意思、識別知
渇愛が生起すると食が生起し、渇愛が消滅すると食が消滅する。
八正道だけが食の消滅におもむく実践修行である。
四聖諦、十二因縁を見るのが正見。
「双考経」
不善と善に、思いや欲求を二種類に分ける。
不善 貪欲、怒り、悩害
善 不貪、不瞋恚、不悩害・不痴
不善の思いは、自分、他者、自他ともに悩害をもたらし、智慧を滅ぼし、涅槃に作用しないと観察する。
善の思いは、自分、他人、自他ともに悩害をもたらさず、智慧を増大し、涅槃のために作用する。
善い思いに心を傾斜させる。
励み、不退転に精進する。
→四禅、三明
「考想息止経」
何かの兆相・ことにあったとき、不善の思いが生起するならば、
1、 それとは別の、善を伴う兆相に意を注ぐべきである。
2、 不善の思いがそれでも生起するならば、その思いの悲惨さ(過患)を考察すべきである。「このようにもこれらの思いは不善である。このようにもこれらの思いは有罪である。このようにもこれらの思いは苦と成り果てる。」
3、 それでも起こる場合は、その思いを思念せず、意を注がないようにすべきである。
4、 それでも起こる場合、その不善の思いに関して、思いを作り出してつどまるものは何か、に意を注ぐべきである。
5、 それでも起こるならば、歯をくいしばって、心をもって心を強く抑えこむべきである。
→ それらの思いは捨てられ、消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
その者は、もろもろの思いがなり行く道に関して自在者である。望む思いであればその思いを思い、望まない思いであればその思いを思わないであろう。渇愛を断ち切って除去し、正しく慢を止滅させ、苦を終わらせる。
「愛尽経」
あらゆるものごとは執着すべきではない。
感受の中に無常を観察する。
「荼帝経」
縁がなければ意識の生起はない。
渇愛による四つの食によって意識の生起はある。八正道で滅す。
「大馬邑経」
身口意・生活の清浄、感官の防護、食の量を知る、不眠の努力、念と正知、遠離、五蓋を除く、四禅、三明。
「蛇喩経」
万事、私のものではない、私ではない、私の我ではない、と観察し、無常と知る。
「七車経」
執着のない完全な安らぎのために修行する。
戒・心・見解の清浄、疑いの超越、道と非道の智見の清浄、行道の智見の清浄、執着のない完全な安らぎの達成
「猟師経」
マーラーの行いの届かないところに住み、世間的利益に近づかず、放逸にならず、陶酔せず、生きる。
自ら生老病死・憂・汚のものでありながら、他の生老病死・憂・汚のものを求めることをやめる。
生老病死・憂・汚の患いを知り、ニッバーナを求める。
五欲に夢中にならず、執着せず、患いを見、脱出する智慧を持つ。
「小苦蘊経」
無悩害こそ最高の感受の味。
「もろもろの欲望は快味が少なく、苦味が多く、悩みが多く、ここには苦患がより多い。」
「サーレヤッカ経」
十善戒違反→悪趣
十善戒遵守→善いところに生まれる。
不両舌戒:離反した人々を和合させ、和合した人々を一層親密にさせ、協調を愛し、強調を好み、協調を喜び、協調を促す言葉を語る。温和で品位ある言葉を語る。
不邪見=正見:布施に果はある。母に仕えることに果はある。この世はある。あの世はある。
法に従い行い、正当に行う。
煩悩の漏出を滅し尽くし、心の解脱・智慧による解脱を現せて、明らかに知り、体現し、成道する。
「大有明経」
智慧のない人=了知しない人
これは苦である、と了知しない。苦の原因、苦の消滅、苦の滅に至る実践、と了知しない人々。
智慧の目的:完全に知ること、正確に知ること、捨て去ること。
正しい見解 ← 二の縁:他からの声、如理作意
五つの資助:戒、聞法、討論、止・観
「我または我に属するものは空無である」:空無の心の解脱
「小有明経」
楽の感受には貪りの潜在的煩悩がつきまといがちであり、苦の感受には怒りの潜在的煩悩が、不苦不楽の感受には無知の潜在的煩悩が、つきまといがちである。
「小受法経」
仏法僧に帰依し、近づくべきものを知り、近づくべきではなく離れるべきものを知る。
喜んで十善戒を守る。
「コーサンビヤ経」
慈愛のある身口意の行為をする。
陰になり日向になり、人々に対して慈愛のある身体・言葉・心の行為を起こす。
「梵天招待経」
「識(ヴィンニャーナ)は目に見えず、無限であり、あらゆる場所に輝いている。」
「アッパンナカ経」
行為に果報はある。
生けるものの汚れ・浄化には、因と縁がある。
「大ラーフラ教誡経」
過去・現在・未来の、あらゆる物質、内にあるもの、外にあるもの、感受、表象、形成力、意識を、
「それは私のものではない。私はそれではない。それは私の自我ではない。」
という正しい智慧であるがままに見るべきである。
毛髪や内臓、血液、身体、呼吸、消化したものも、すべて、
「それは私のものではない。私はそれではない。それは私の自我ではない。」
と観察し、それらから心を離れさせる。
そして、地と等しくなる修行をせよ。大地のように忍耐強く、大きな心を持つ。
水と等しくなる修行をせよ。清濁ともに流していく。
火と等しくなる修行をせよ。清濁ともにあらゆるものを焼く。
風と等しくなる修行をせよ。清濁ともにどこにでも吹いてとどまらない。
空と等しくなる修行をせよ。どこへも固定されず、心を占拠してとどまることはない。
慈・悲の修習をせよ。そうすれば怒り・害意は消滅されるであろう。
善の修習をせよ。そうすれば不快は消滅されるであろう。
捨の修習をせよ。そうすれば、障礙は消滅されるであろう。
不浄についての修習をせよ。そうすれば、貪欲は消滅されるであろう。
無常であるという想いの修習をせよ。そうすれば、慢は消滅されるであろう。
呼吸に対して精神を集中する修行を修行せよ。
それを数多く行えば、大きな結果があり、大きな利益がある。
「阿湿貝経」
夜の食事を除いて、食事をとる。そうすると、病気が少なく、疾病が少なく、体が軽快で、力があり、安穏に過ごせることに気がつく。
夜の食事を除いて、食事をとりなさい。
信→聴聞→憶持→意味を考察→教えを喜ぶ→意欲→努力→無常・苦・無我を考量する→考量して精勤する→精勤し真理を体現し、慧によってそれを詳細に観察する。
「火ヴァッチャ経」
涅槃に役に立たないことや見解は放っておく。
「大ヴァッチャ経」
貪瞋痴が不善。不貪不瞋不痴が善。
十善戒違反が不善。十善戒遵守が善。
漏尽智=心の解脱、智慧による解脱
「鬚閑提経」
「無病は最上の利得であり、涅槃は最上の安楽である。
不死へ導く八正道は安穏である。」
「サンダカ経」
四種の清らかならざる行い。
1、 布施に果はない。行為にかはない。父母に仕えることにかはない。あの世はない。などと思い、生きる。
2、 悪の行為の報いはない、と思って生きる。
3、 生けるものたちの汚れや浄化に、因はなく、縁はない、と思って生きる。
4、 輪廻や運命は決定されていると考え、「私はこの戒により、または自制により、または苦行により、または清らかな行いにより、いまだ熟しいていない業を熟果させよう、またはすでに熟した業を徐々に消滅させよう」と考えない。
四種の安息を与えない清らかな行い
1、 自分を悟った勘違いし、間違った苦行を行う。
2、 伝承にもとづき、伝承を真理とする。伝承には、正しい記憶もあり、間違った記憶もあり、正しいこともあれば間違っていることもある。
3、 理論にとらえられ、理論ばかり。正しい理論もあれば、間違っている理論もあるし、理論は正しいこともあれば、間違っていることもある。
4、 愚昧、詭弁。
正しい実践
十善戒、少欲知足、六根防護、サティ、禅定、五蓋除去、過去世を思い出す、死生智、四諦についての漏尽智。
「五支物主経」
不善の道徳 「心より起こる」 貪欲・怒り・迷いある心から
善の道徳 「心より起こる」 貪欲・怒り・迷いを離れた心より起こる 四正勤・善
不善の思考 「想念より起こる」 欲望の想念、怒りの想念、他を害する想念
「箭毛経」
絶対的な安楽の世界=四禅の修業
意の感官を制御・防護する
漏尽智=四聖諦、苦と煩悩について
「ガティーカーラ経」
ガティーカーラを見習おう。
「ラッタパーラ経」
「世界は(人は)恒常ではないものとして(終わりへ)連れられていく」
「世界は無庇護なものであり、最高支配者を持たない」
「世界は自己のもの(所有物)をもたない。すべてを捨てて(人は)逝かねばならない」
「世界はいつも何かが欠けているものであり、(人は)満足が持てな、渇愛への隷属者である」
「菩提王子経」
五つの精勤支:信、無病、誠実、精進、智慧
「愛生経」
愛より憂いは生じる。
「外套経」
不善 ― 苦しみの果報のある身口意の行為 自分や他人、自他両方を悩みに導く
善 ― 安楽の果報のある身口意の行為 自分や他人、自他両方を悩みに導かず、不全なる事柄が減少し、善い事柄が増大する
「チャンキー経」
伝承に盲目的に従うこと:目の不自由な人の列のようなもので、前の人も中の人も後ろの人も、何も見えない
「私はこのような意見を喜んで認めることがある」というのは良いし真理を守ることだが、「これだけが真理であって他は誤りである」という態度は誤りである。
知らないのに知っていると言ったり、それが原因で他の人たちに長夜のあいだ利益のない苦しみをもたらすようなことを他人に勧めるのは、大きな罪である。
真理を覚る ― 貪瞋痴から離れた人について信じ、修行する
真理を獲得する ― 教えを繰り返し連続して多く行うこと
真理の獲得の方法 一生懸命行う、熟考する、敢行する、意欲、教えをよろこんで認める、意味を考える、教えを保持する、教えを聞く、耳を傾ける、尊敬する、近づいて行く、信じる
「阿摂惒経」
階級に関係なく人間は平等であり、ただ十善戒に違反しているか、十善戒を守って生きているか、その心が大事である。
「鬱痩歌経」
奉仕 ある人に奉仕している時に、その奉仕が原因で、自分の中に信が増し、戒めが増し、聞法が増し、捨が増し、智慧が増すならば、その人に奉仕すべきである。
聖なる法こそ人の財産 十善戒
いかなる肩書きや身分の人であろうと、貪瞋痴を離れ、十善戒を守っている人こそ、真理・善法に熟達した人である。
「梵志陀経」
親、妻子、部下、友人、親族、客、先祖、神々、王の、それらいずれのもののためであろうと、自分が悪業をなせば、自分が地獄に落ちる。
法にかなったことを、自分のためにも誰のためにも行うべきであり、法にかなっていなければ行うべきではない。
「ヴァーセッタ経」
人は行為によって決る。
この行為をあるがままに見る賢者たちは縁起を見、行為とその果報を知る人である。
世界は業によって存在し、人々も業によって存在する。車が進むときのくさびのように、生けるものたちは業によって縛られて行くのである。
清らかな行い、自省と自律によってこそ、人は本当に高貴な人と言える。
「デーヴァダハ経」
苦に征服されていない自己を苦に征服させず、正当な楽を捨てず、しかもその楽に固執しない。
苦の原因に関して、精勤する力を働かせ、貪瞋痴から離れる。苦の原因に関して、中庸となり、中庸を修習し、貪瞋痴から離れる。
「スナッカッタ経」
正しい涅槃に熱中する人こそ、正しい実践をなす。
「マハープンナマ経」
五蘊、五感の対象、感受は、すべて無常である。
「これは、私のものではない、私ではない、私の自我ではない」ときちんと観察すべきである。
無常で、苦である。
そう観察すると、貪りが消える。
「チューラプンナマ経」
不善なる人は、誰が善なる人か、不善なる人か、知ることはない。
善なる人の特徴:信心、恥、罪の意識を持ち、多くのことを学び、勤勉、注意力をめぐらしている、智慧を具えている。
不善なる人の特徴:上記の反対
善なる人は、身口意で他人を悩まし苦しめるような行為はせず、十善戒を守り、行為の果報があるという見解を抱いている。
善なる人は、敬意のこもった布施、みずから手を下した布施、真心をこめた布施、完璧に清らかな布施、将来の果報を考慮した布施を行う。
「真人経」
身分や家柄、地位や学識、知名度や能力があるからといって、貪瞋痴が心から消え去っていくというわけではない。
たとえいかなる地位や学識や行であれ、その人があまねく教法(ダンマ)にしたがって実践し、正しく実践し、教法どおりに行動する者であるならば、その人はそのことにおいて敬われるべきである、と考え、他の何かのゆえに人を見下したりするべきではない。
「セーヴィタッバアセーヴィタッバ経」
「親しむべきもの」と「親しむべからざるもの」に、身口意それぞれの行為と、心性と、表象の獲得と、見解の獲得を、それぞれ二に分ける。
親しむべからざるもの:それになじんでいる人にとって、もろもろの不善なることが勢いづき、もろもろの善なることが衰えていく、そのような身口意の戒違反行為(十善戒違反、貪瞋痴)、六根、地域、都市、国、個人。
強欲、憎しみ、攻撃的な心性・表象、
布施は無意味である、行為の善悪に果報は存在しない、この世やあの世はない、父母や仏はいない、といった見解。
害意を抱いた個性の獲得を生起させる者
親しむべきもの:それになじんでいる人にとって、もろもろの不善なることが衰え、もろもろの善なることが勢いづいていく、そのような身口意の戒、行為(十善戒、不貪不瞋不痴)、六根、地域、都市、国、個人。
強欲や憎しみや攻撃性を伴わない心性・表象、
布施には意味がある、善悪いずれの行為にもその果報が存在する、この世はある、あの世はある、父母や仏や道の人はいる、といった見解。
害意のない個性の獲得を生起させる者。
この見解を保持する者は、長期にわたって、自他のすべての利益や安らぎに資する。
「多界経」
正しい見方をしている人が、五逆罪を行う可能性は考えられず、凡夫が五逆罪をしたり邪見を持つことはありえる。
「聖道経」
正しい見方:誤った見方・思考・行動・発言・生計を誤った見方・思考・行動・発言・生計と知り、正しい見方・思考・行動・発言・生計を正しい見方・施行・行動・発言・生計と知っている。
誤った見方:布施に果報はない、善悪の行為に果報はない、この世はない、あの世はない、父母はない、仏や沙門は世間に存在しない、といった見方。
正しい見方:布施に意味はある、善悪の行為に果報は存在する、この世はある、あの世はある、父母はある、正しく道を修めた仏や沙門は世間に存在する、といった見方。および、聖道に属する智慧の正しい見方。
誤った思考:欲をともなった思考、敵意をともなった思考、害意をともなった思考
正しい思考:欲を離れた思考、敵意のない思考、害意のない思考。および、聖道を修めた煩悩を離れた人の思考。
誤った発言:嘘、中傷、暴言、戯れ言
正しい発言:嘘をやめること、中傷をやめること、暴言をやめること、戯れ言をやめること。および、聖道を修めた煩悩を離れた人が、ことばによる四種の悪行を絶つこと。
誤った行動:生きものを殺すこと、与えられていないものをとること、不貞行為をはたらくこと。
正しい行動:生きものを殺すことをやめること、与えられていないものを取るのをやめること、不貞行為を働くのやめること。および、聖道を修めた煩悩を離れた人が、三種の身体による悪行を中止すること。
誤った生計:もったいぶって人の歓心を買ったり、口先で人を丸め込んだり、遠まわしに何かをねだったり、人を貶めたり、利益によってさらなる利益を追求すること。
正しい生計:誤った生計を捨てて正しい生計によって生活を営む。および、聖道を修めた煩悩を離れた人が、誤った生計を絶つこと。
誤った見方・思考・発言・行動・生計を捨て、正しい見方・思考・発言・行動・生計を備えようと努力するとき、その人は正しい努力をしている。
注意して誤った見方・思考・発言・行動・生計を捨て、注意して正しい見方・思考・発言・行動・生計を備えているとき、その人は正しい注意をしている
正しい見方をしている人から正しい思考が生じる。正しい思考をしている人から正しい発言が生じる。正しい発言をしている人から正しい行動が生じる。正しい行動をしている人から正しい生計が生じる。
正しい生計をしている人から正しい努力が生じる。正しい努力をしている人から正しい注意が生じる。正しい注意をしている人から正しい精神集中が生じる。正しい精神集中をしている人から正しい知識が生じる。正しい知識をもっている人から正しい解脱が生じる。
正しい見方・思考・発言・行動・生計・努力・注意・精神集中・知識・解脱をしている人には誤ったそれぞれのものが尽きている。誤ったそれぞれを縁として生じる多くの悪い善くないことも尽きている。そして正しいそれぞれを縁として生じる多くの善いことが完全に展開する。
「意行経」
希望による転生:信、戒、学識(聞)、捨、智慧をそなえている者が、「ああ、私は身体が壊れたあと、死んだあとに、〜の仲間に生まれ変わりたいものだ。」と思う。そう思い立ち、その思いを確かにし、その思いをふくらませる。その希望と、信・戒・聞・捨・慧の生き方を進め、強めると、そこに生まれ変わるのに効果がある。
(裕福な身分や、三十三天や他化自在天などの六欲天、四禅の天、無色界など)
さらにまた、信、戒、学識(聞)、捨、智慧をそなえている者が、「ああ、私は煩悩を尽し、煩悩のない心の解脱と智慧による解脱を現世でみずからはっきりと知り、じかに見、そこに達してとどまりたいものだ」と思う。かれは煩悩を尽くし、心の解脱と智慧による解脱を現世でみずからはっきりと知り、じかに見、そこに達してとどまる。この者はどこにも生まれ変わりはせず、いずこにも生まれ変わりはしない。
「大空経」
弟子たちが仲間としてではなく、敵として師匠に接する:師匠が「これは汝らのためになる。これは汝らの幸せになる」と思いやりをもって説いた教えを、聞こうとせず、耳を貸さず、よそ事を考えている。そして、師匠の教えから逸脱してしまう。
弟子たちが敵としてでなく、仲間として師匠に接する:師匠が「これは汝らのためになる。これは汝らの幸せになる」と思いやりをもって説いた教えを、熱心に聞き、耳を傾け、よそ事を考えない。したがって、師匠の教えから逸脱することはない。
それゆえに、敵としてでなく、仲間として、釈尊に接しなさい。それが長期にわたって汝らのためになり、幸せとなるであろう。
釈尊は、陶工が焼成前のやわらかい壺を扱うように、汝らにやさしく接したりはしない。厳しく厳しく、しつこくしつこく言い聞かせるであろう。しっかりしたものはついてくるはずだ。
「浮弥経」
成果を得ようと思うか得まいと思うかによって成果があるのではない。
成果が欲しいと思って生活を送っても、成果を生み出すもととなるものが欠けていれば、その成果を得ることはできない。
成果を生み出すもととなるもののそなわった生活を送れば、成果が欲しいと思っても負わなくても、その成果を得ることができる。
八正道の生活か否かが大事。
「有勝天経」
無量の心の解放:慈悲喜捨の瞑想
おおいなる心の解放:二、三本の樹の範囲、二、三の村の範囲、ひとつの王国の範囲、二、三の大王国の範囲、海岸から海岸までの範囲で、「ここまでの大きさ」と思って、心を広めて、解放している。
神々の光の清濁や大きさは、この心の解放の大小と、煩悩の浄化・意識の明瞭さの程度によって決ってくる。
人もまた、その心の解放の大小と煩悩の浄化・意識の明瞭さによって、生まれ変わる神々の世界が違ってくる。
「長寿王本起経」
光明・信によって、十一の心の汚れをチェックし、なくす。
疑惑、不注意、意識の朦朧、恐怖、歓喜、いかり、がんばりすぎ、気のゆるみ、欲望、さまざまな想い、物を細かく見すぎる、という十一の心の汚れを汚れであると知って、なくす。
「癡慧地経」
愚か者の特徴:悪しき考えを抱き、悪しきことばをしゃべり、悪しき行いをする。
愚か者の現世における三つの苦しみ:他の愚か者と同列、刑罰を恐れる、どこにいようとも身口意による悪い行いが、重くのしかかってきて、悲しみ、困憊する。
死んだあとは、悪い行き先、地獄に生まれる。地獄は、「ただひたすら逃れたいもの、ただひたすら嫌なもの、ただひたすらおぞましいもの」である。あるいは、畜生に生まれる。人間に生まれ変わるのは浮亀木孔のように困難である。
賢者の三つの特徴:善き考えを抱き、善きことばをしゃべり、善き行いをする。
賢者の現世の三つの悦び:善き人々と同列。刑罰を恐れる必要がない。どこにいても身口意の善い行いが重くのしかかってきて、後生も明るく、悲しむこともなく困憊することもない。
転輪王の七宝・四不思議よりもまさるよろこびを天界で得る。あるいは高貴で裕福な人に生まれる。
愚者は一振りのばくちに大負けし、賢者は一振りのばくちに勝ったようなものである。
「吉祥なる一夜」
「過去を振り返るな、
未来を追い求めるな、
過去となったものはすでに捨て去られたもの、
一方、未来にあるものはいまだ到達しないもの。
そこで、いまあるものを
それぞれについて観察し、
左右されず、動揺せずに、
それを認知して、増大させよ。
今日の義務をこそ熱心にせよ、
明日の死を知りうる人はないのだから。
死神の大軍勢と
戦わない人はいないのだから。
このように熱心に禅定を行う人、
昼夜怠けぬ人、
その人こそが『吉祥なる一夜における、
心静まった聖者』として語られる。」
いまあるものに左右される=無常、無我、苦を知らないから
過去を振り返る=過去に、欲と貪りでがんじがめになった認識をもつ。
未来を追い求める=かくかくの色・形があればよいと思い、まだ得ぬものを得ようと心が願い、その願いによってそれによろこびを見出す。
いまあるものに左右される=六根について、欲と貪りによってかんじがらめになってよろこぶ。
「小業分別経」
不殺生:長命
生き物たちを苦しめない:無病
不瞋恚:美しさ
嫉妬しない、尊敬礼拝供養:権力
布施:富
謙虚、尊敬尊重、もてなし:尊い家柄・身分
「善とは何か?不善とは何か?
罪あることとは何か?
習うべきものは何か?習うべからざるものとはなにか?
私が行って長い間不利益、苦となることは何か?
私が行って長い間利益、楽となることは何か?」
と修行者やバラモンに近寄って尋ねる:賢明さ、智慧
すべての境遇は前世の行為によってもたらされる。
「大業分別経」
善悪の行為の報いは必ずある。
しかし、善悪の行為の報いはすぐに現われるとは限らない。
(十善戒の遵守か破戒か)
現世か、次の世か後の世で結果を味わう。
「分別六処経」
出家の喜び:無常を知った遠離による喜び。
在家の喜び:六根によって気に入った色や形を獲得されて得たものとみなすことにより、あるいはかつて獲得されたものを思い出すことによって喜びの気持ちを起こす。
「分別観法経」
意識が外に散乱し、拡大することなく、執着を起こさず、怖れることのないように、
(六根を防護し、四禅に執着せず、無常・無我を知り)、
観察しなさい。
「無諍分別経」
人は欲望の楽しみにふけるべきではない。その楽しみは、最終的な利益をもたらすものではない。人は安楽とは何かを知るべきであり、それを知った上で、心の中の安楽をもっぱら求めるべきである。
人は賞賛とはなにか、非難とはなにかを知った上で、どちらでもなく、ただ真理だけを語るべきである。
人はゆっくりと話すべきで、急いで話してはならない。
五欲:眼耳鼻舌身によって識別され触れられる、心地よく、欲望をともない、貪りを引き起こすもの。
「この楽を、追い求めるな、身につけるな、増大させるな。この楽を怖れよ」
四禅・遠離
「この楽を追い求めよ、身につけよ。増大させよ、この楽を怖れるな」
「われわれは、心が乱れる生き方と心が乱れない生き方とを知ろう。そして、それらを知ったうえで、心が乱れない修行道を歩もう」と学ぶべきである。
「界分別経」
人間の四つのよりどころ:智慧、真実、捨断、寂静
それゆえ、人は智慧を怠惰にすべきではない。真実を護持すべきである。捨断を修習すべきである。まさに寂静を修学すべきである。
「諦分別経」
苦諦:憂い・悲しみ・苦痛・悩本性としてもつ生きものが、「ああ、じつに、私たちは憂い・悲しみ・苦痛・悩み・絶望を本性にもたなければよいのに。実に、私たちに憂い・悲しみ・苦痛・悩み・絶望はやってこなければいいのに」という欲求を起こす。しかし、これは求めても得られるはずはない。これも求不得苦である。
老病死についても同じ。
苦の原因:欲望。欲望は、再生に結びつけ、あちらこちらで喜びを見つける。すなわち、感覚的欲求への欲望、すぐれた生存への欲望、生存の断滅への欲望である。
苦の滅尽:この欲望から、完全に貪りを離れ、滅尽し、棄捨し、捨離し、解脱し、執着しないことである。
苦の滅尽に導く道:八正道
「施分別経」
個人に対する布施に十四段階。
(上から十番目の預流向以上の人への布施は、一兆以上の生存、無量の生存で、長寿と美貌と安楽と力と弁財をもたらし、恐怖をなくさせる)
教団への布施に七段階。
四種の布施の清浄さ(受ける側、施す側の清らかさの程度)
戒めを守る人が、戒めを守る人たちに施すとき、
施物が合法的に得られたもので、施主が清浄な心を持ち、
行為に対する偉大な果報を堅く信じているなら、
この施物は、広大な果報をもたらすもであると、釈尊が断言する。
貪りを離れた人が、貪りを離れた人たちに施すとき、
施物が合法的に得られたもので、施主が清浄な心を持ち、
行為に対する偉大な果報を堅く信じているなら、
この施物こそ、広大な果報をもたらすもであると、釈尊が断言する。
「教給孤独経」
「私は、私が見たもの、聞いたもの、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、それらにも執着しないでおこう。そうすれば、私には、それらをよりどころとする認識もなくなるだろう」
行為と知識と理法と戒めを守る生活。
これらによって人は清められる。
身分や、財産によるのではない。
それゆえ、賢明なる人は、真におのれのためになることを見て、深くものごとを考察せよ。
そうすれば、その間に、人は清められる。
「六六経」
六根による認識や接触や感受を、「これは私のものではない、これは私ではない、これは私の自我でない」とみなすと、身体の止滅に向う。
貪:六根による楽の感受の喜びへの執着の性向。
瞋:六根による苦の感受への、愁い、悲しみ、嘆き、迷妄、怒りうらむ傾向
痴:不苦不楽の感受の生起と滅没、その感受の楽しさと危険性、その感受からの遠離、それらをあるがままに知らない、おろかさという性向。
楽の感受への執着を捨て、苦の感受のために怒りうらむ性向を除去せず、不苦不楽の感受についての愚かさという性向を根絶しないで、無知を捨てないで、智慧を生じさせないで、それでいて、現世においてその人に苦しみの終滅がおとずれるということは、道理としてありえない。
六根を遠離し、貪りを離れる。すると解脱する。
「乞食清浄経」
自分の六根で識別されたものについて、私の心の中に、欲望や、貪り、瞋り、愚かさ、反感があったか、省み、もしあったならばそれら悪い未熟なものを捨断するために努力する。ないならば、その喜悦をもって昼も夜もさらに学んで、善い状態に安住するべきである。
私は五欲・五蓋を捨てたか、五蘊を完全に知ったか、四念処を修したか、四正勤を修したか、四神足を修したか、五根・五力を修したか、七覚支を修したか、八正道を修したか、止・観を修したか、明知と解脱を実証したか、省みる。
もし完全に修していないと知るならば、完全に修するために、努力すべきである。
三世においてそう観察し、托鉢を清浄にする。
「根修習経」
六根によって認識したものに対し、
「私の中に生じたこの好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものは、作られたもの(有為)であり、粗大なものであり、条件によって生じたものである。
一方、差別の心を捨てることは、寂静なものであり、勝れたものである。」
と理解する。
こうして、平静な状態を心に確立する。
六根によって、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいなものが生じ、それによって悩み、恥じ、厭う人は、まだ学べねばならない人の段階である。
六根について、修習された感官の持ち主は、
嫌なものについて嫌悪の想いを持たずに、あるいは好ましいものについて嫌悪の想いをもって、あるいはいやなものと好ましいものとにおいて嫌悪の想いを持たずにすごそうと、どのように願ってもその境地にとどまる。
あるいは、「私は、いやなものと好ましいものとの両者を避けて、それらへの差別の心を捨てたものとして、サティ(気づき)ある正知者として過ごそう」と願い、その境地にとどまる。