「ガンジーの言葉」
喜びは、闘争、試み、苦難の中にあって、勝利自体の中にはない。
善いことというものは、カタツムリの速度で動くものである。
非暴力は成長の遅い植物である。
しかし、その成長はほとんど目に見えないが、事実である。
私は自分の家に垣をめぐらし、窓を閉めることを望みはしない。
私はすべての国々の文化の息吹ができるだけ自由に家中を流れることを願う。
もし「力」が精神の力を意味するのであれば、
女性ははかり知れないほど男性よりもすぐれている。
もし、非暴力が私たち人間の法則であれば、未来は女性のものである。
非暴力はその働きという点でラジウムのようなものである。
悪性の腫瘍に加えた超微量のラジウムは、
病に冒された組織のかたまり全部を正常なものに変えてしまうまで、
継続的に音もなく絶え間なしに作用する。
同様に本当の非暴力はほんのわずかでもひっそりと微妙に目に見えず働き、
社会全体を感化していくものだ。
原子爆弾の破壊力にも動じない偉大な精神の力は、皮膚の色になんら関係なく、
男にも、女にも、子供にも、あらゆる人々のなかに宿っている。
ただ多くの人々においては、
それが休眠状態であるというだけのことであって、
思慮分別をもった訓練によって休眠から目ざめさせることが可能である。
非暴力は、原子爆弾をもってしても破壊することのできない唯一の存在である。
原子爆弾が広島を破壊したことを耳にした時、私は自らに語った。
「今こそ世界が非暴力の精神を取り上げなければ、
人類を必ず自滅の道に向わしめるであろう」と。
友の幸福のためにどれだけ尽しているか、
そこに、人間の偉大さを測る物差しがある。
非暴力には敗北などというものはない。
これに対して、暴力の果ては必ず敗北である。
一人に可能なことは、
万人に可能であるというのが私の常にかわらぬ信条なので、
実験は私室ではなく野外で行ってきた。
どんなに小さな集団でも、皆が断固たる決意をもち、
何があっても消えない信念の炎を燃やして、自分たちの使命を担うとき、
歴史の流れさえも変えることができる。
私はどこまでも楽観主義者である。
正義が栄えるという証拠を示しうるというのではなく、
究極において正義が栄えるに違いないという断固たる信念を
抱いているからである。
私は人間の活動から遊離した宗教というものを知らない。
宗教は他のすべての活動に道義的な基礎を提供するものである。
その基礎を欠くならば、人生は「意味のない騒音と怒気」の
迷宮に変わってしまうだろう。
もし再び生れることがあるならば、
不可触選民に生れてきて、彼らの悲しみや苦痛や、
彼らに向けられた侮辱を分かち合いたい。
そして自分と仲間を、あの悲惨な境涯から救い出してあげたい。