- 作者: アルボムッレ・スマナサーラ,Alubomulle Sumanasara
- 出版社/メーカー: サンガ
- 発売日: 2009/01/01
- メディア: 新書
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道徳を守ることこそ幸福への鍵。
十悪、特に「邪見」を戒め、智慧と道徳を大事にして生きる生き方が勧めてあった。
道徳ほど実際はないがしろにされていることもないというのも、この本のいうとおりなのかもしれない。
特に考えさせられたのは、不邪見とは理性的な態度、
つまり「とりあえず、いまある証拠、データにもとづくならば、このような結論にならざるを得ない」という姿勢のことで、いつでも自分の意見を訂正可能な状態にすることだと説明している箇所だった。
邪見とは、「間違った見解」のこと。
つまり、不邪見戒とは、邪見を持たないようにすること、
要するに、間違った見解・理性にもとづかない見解を持たないようにしなさい、ということ。
十善戒についての解説の箇所で、長老は十善戒の中では「不邪見戒」が一番大事としている。
邪見を防ぐには、
「こころがオープンであること」
「批判に耳を傾けられること」
「自分の意見が一時的なものだと考えられること」
「理性を大事にすること」
「客観的に観察すること」
などの姿勢が大切だということも述べていた。
これらの姿勢や心構えがそろっていれば、邪見に陥らずにすむらしい。
ちなみに、もうひとつ、邪見を防ぐ方法として、
釈尊が説いた以下のような真理に基づいて生きてみることがあるらしい。
いわく、
「生きることは苦です。
一切の現象は無常であり、苦であり、無我です。
すべての現象は因縁によって現れる一時的なものです。
因縁なくしてなにも起こりません。
渇愛によって命は輪廻転生します。
渇愛を残り無く取り除けば、こころが自由になります。
解脱こそが最高の幸福です。」
世がどうであろうと、断固として自分の生き方には道徳をきちんと守ることこそ、自分の人生を全うする第一の鍵なのかもしれない。
スマナサーラ長老が、邪見の最たるものは、「自分のせいではない」という考え方だとしている。
「自分のせいではない」という思考こそ、道徳を腐らせ、人生の責任主体であることを妨げ、人生を台無しにする困った思考だと。
今の日本には、意外と「自分のせいではない」という考えがいたるところにあるような気もする。
自業自得、自分の人生は自分のせいと引き受けてこそ、道徳も智慧も努力も幸福も、ありえるのかもしれない。
道徳を成り立たせない宗教はすべて「邪見」という指摘も、なるほどーっと思った。
難しいからこそ、日々に努力精進していかないとなぁ。