「仏教における人間の尊厳について」(スリ・ダンマナンダ長老)
人間の尊厳という、このシンプルですが、しばしば混乱しているテーマについて、仏教の見地から、議論できる範囲で確認をしてみましょう。
人間の持つ性質において、尊厳や高貴さを育むものとは一体何でしょうか?
それは、私たち人間が日々のお互いの関係の中で守り大切にしている、道徳や倫理や、知性や精神の規範が、元となってできています。
人間として、私たちは心を持っています。
その心が、善悪の違いや、誇りに思うことと恥じるべきこととの間の違いを知ることができるように、私たちは心を育てることができます。
人間として、私たちは皆、これらの人間らしい性質を大切にしています。
このような価値を大切にしているかどうかということで、私たちは自らを人間であるか動物であるかの区別をしています。
私たちの宗教の本(仏典)において人間を表している「マヌーシャ」という言葉は、「心を育てることができる者」という意味です。
心を育てることができるとは、何が倫理にかない、何がそうでないか、何が道徳的で、何が非道徳的か、何が良いことで、何が悪いことか、何が正しく、何が間違っているかについて、判断できるようになるための考える力を、人が育て、維持することができるということを意味しています。
これらの性質は人間の持っているものの中にあります。
動物はこのような性質は持っていません。動物は本能によって行動しています。
人間は、高いところまで、仏陀の境地に達するところにまでさえ、心や考える力を育てることができる唯一の生きものと考えられます。
さまざまな宗教が現れる以前、人間は二つの大事な要素によって導かれていました。
原始時代においても、その二つの要素は人間の尊厳を支えてきました。
その二つの要素とは、パーリ語で「ヒリ(Hiri)」と「オッタッパ(Ottappa)」といいます。「恥」と「畏れ」と訳されます。
これらの二つの要素、恥と畏れは、常に人間のあらゆる行動を左右し、それによって、動物と人間の行為との区別がなされてきました。
しかしながら、人間が恥と畏れという二つの大事な要素を維持することに失敗した時、つまり、麻薬や酒や度を越した性欲や、怒りや貪欲やねたみや利己心や憎しみに人が屈服してしまった時には、人は自らのバランスを失い、人間としての尊厳を保つ自らの権利を否定してしまいます。
恥と畏れがなければ、人間は動物と変わりありません。
人間は、進化の階段を実際、随分と進んできました。
人は科学的・心理学的・物質的に、驚嘆すべき成功を達成してきました。
あらゆる形の、数限りない宗教的な実践や習慣や伝統や儀礼儀式、奉納や祈りが、今や存在しています。
私たちは文明人として自らに誇りを持っています。その一方で、私たちは、動物と変わらないような一部の人々の振る舞いや態度に深く心を痛め、気付いています。
これはもちろん、人類のために促したいと思うような進歩ではありません。
尊重する価値のあるものとしての人間とは、畏れと恥を知ったありかたを具え、親切であり、慈悲深く、他人に対して思いやりを持つ存在であることでしょう。
そのような人は、自らが他の人に害を与える原因となってしまうことを心配します。また、他の人が必要な時にはいつでも助けの手をさしのべる準備をしているものです。
これらはごく当たり前に人間にとって大切なことであり、かつ私たちは皆、これらの大切なことを大事にし、支持しています。
私たちは、人間らしい資質を育てるべきです。それらに背くべきではありません。
私たちは自らにもともと備わっている素晴らしい徳を、他の人々の役に立つことによって、さらに育てていきます。
他の人々の役に立つことによって、私たちは人を理解する精神や、親切さ、慈悲、正直、飾らない素直さ、優しさ、謙虚さ、充実感などを実現していきます。
これらは尊重すべき人間としての価値であり、これらの価値を得たならば誇りに思うべきです。
人間の性質の中には、有意義な人間として価値あるものになるまで、注意深く守り育むべき、ある一連の特質があります。
大まかに、その特質は三つに区分されます。
つまり、私たちの中の、動物的な性質、人間的な性質、尊い性質です。
これらの三つの特質は、さまざまな度合いで、私たちの振る舞いに影響しています。
もし、私たちが自らの醜い行動を抑えたりコントロールしようという何の努力もせずに、動物的な性質のままに振る舞えば、私たちは社会の厄介者となることでしょう。
宗教は、私たちが動物的な性質をコントロールするのに役立つ重要な手段です。
傑出した宗教的な指導者たちの気高い教えである宗教は、適切な人間の振る舞いを導くものとして役立つはずです。
宗教はまた、人間の隠れた性質のさまざまな側面を、耕し、育み、育てる手段として、私たちにとって役に立つものです。
人間としての性質を耕し育てることによって、私たちは最終的に尊いゴール、つまり私たちの尊い性質に達します。
尊い性質に達することにより、貪欲や度を越した性欲や、怒りや憎しみや嫉妬やねたみやその他の、問題のある心のありかたが完全に取り除かれたレベルにまで心が発達します。
それにより、人間はより気高く、高い尊敬を受ける価値のあるものになります。
宗教を役立てることにより、私たちは自らの動物的な性質を抑制しコントロールし、人間としての性質を耕し育て、尊い性質に達します。
他の人々の幸せを気づかうことや、善意や友好的な態度を持つこと、慈悲や親切さ、他の人の成長を一緒になって喜ぶ心、得ることや失うことに対して、賞賛や非難に対して偏りのない態度を持つこと、といった心が育つことによって、この尊い性質は生じます。
この尊い性質は、四無量心としても知られています。
多くの宗教家たちが、単なる祈りや礼拝の行為や、なんらかの儀礼儀式を単に行うだけで、人間の尊いゴールに達することができるという誤解のもとに未だにあることは、皮肉なことです。
それは間違っています。
この態度は変えられなければなりません。
私たちは本当の、そして尊厳のある人間として生きるために実行すべきさまざまな義務や責務を持っています。
私たちは尊い心のありかたに達するために、人間としての性質を耕し育てるべきです。
私たちは、人類の幸せやより良いことのために人間に役立つあらゆる価値を実践しなければなりません。
私たちは、実行できる良いことはすべて行い、悪いことはすべてなくしていかねばなりません。
この世界の宗教は、私たちに平和と調和のうちに暮らしていくための正しい道のりを指し示し、導くために、発達してきました。
すべての宗教は、その教えに従う人々に、お互いに敬意と理解と尊厳を持って生活し、食事し、働くことができるために、重要で適切な指針をもたらすものであるべきです。
同じくなんらかの宗教を信じているものとして、私たちは皆、憎しみや嫉妬や反目や優越感を持つことなく、お互いにともに生きることができるはずです。
仏教は、私たちにそのような手引きを与えてくれています。
昔から賢者たちは、人生の目的は単に利己的に自己を広げることではなく、他の人々の役に立ち、人類の役に立つための気高い行為を実践することであるということを、明白に述べてきました。
この世界の偉大で聡明な人々は、他の人々の役に立つことによって、充足感や偉大さを達成してきました。
他の人々の役に立つことは、私たちがもともと持っているさまざまな徳を育てることになります。
私たちは他の人々の役に立つ時、私たちは自分自身の役にも立っているのです。
私たちが苦しんでいる他の人々を助ける時、私たちにはより多くの自らの心の幸せと安らぎがもたらされます。
「心の性質」
人間としての価値あるものは、もともと人間の中にあるものによってもたらされます。つまり、私たちの理性的な心によってもたらされます。
この理性があるために、私たちは「マヌーシャ」、つまり「考えるための心を持っているもの」と言われています。
釈尊は、「心はこの世においてあらゆるものに先立つものです。」とはっきりおっしゃいました。
ゆえに、合理的な思考を行う力を持たない他の生きものから、考える働きを持つ私たち人間は区別されるのです。
動物のような他の生きものたちは、人間の持つ特質を持っていません。つまり、他の生きものは、良いことと悪いこととの間で論理的な判断を下すことや、人間が行うように哲学的に思索するということはできません。
この理由から、人間はこの世界において独特なものと言えます。
独特なものであるがゆえに、人間の心は、気高い宗教の教えによって適切に訓練され精神的な導きを受けねばならないものです。
なぜそうしなければならないかというと、心がこの世界に災いをもたらすのではなく、人類にとって良いことのために働き、理性を持つことができるようになるためにです。
ユネスコ憲章の前文には、「戦争は人間の心から始まります。ゆえに、人の心の中には平和を守るための防御を築かなければなりません。」という、とても意義深い一節があります。
人間の心の中から、この世界のあらゆる悪は生じます。また、適切に耕され陶冶された心を通じて、人類にとって善いことのために、私たちはあらゆる悪を取り除くこともできます。
私たちは幸運にも、人類の役に立ち、知性的に働くように心を耕し陶冶することができます。その一方で、私たち人間の特質には、他の生きものには見られない不幸な側面もあります。それは、人間の持つ悪賢さやずるさです。
人間の悪賢さやずるさに固有な特徴は、たやすく他のすべての人間の大事な価値を覆い隠してしまいます。
実際に、この世界にはびこっている苦しみや混沌とした状況やあらゆる問題は、人間の利己的な心や悪賢さやひねくれた心によってもたらされていると言うことができます。
こうした特徴は、非常に取り除くことが難しいものです。
もし、人が自らの欲望のままに振る舞って良い完全な自由を与えられるならば、その人はほんの短い間に全世界を滅ぼしさえするかもしれません。
人は、さまざまな科学的な新発見を通じて、自らの存在そのものにとってさえ危険だと疑われるような存在となりました。
しかし、宗教は、これらの悪賢さやずるさといった不幸な特徴から、人間が方向を転換するために、重要な役割を果たすべきです。
宗教は、人間を精神的に高め、あらゆる悪を除く働きをする気高い戒めを持っています。人間の心に平和や安らぎの道のりを指し示す羅針盤として、すべての人の幸福や善のために、宗教は役立つべきです。
仏教は、他の宗教と同じように、あらゆる悪を取り除く努力をし、人類の幸福のために働くものです。
仏教の主な目的は、日常生活を生きる人々に対して、間違いなく人類のためにプラスの存在となれるように、心を鍛え整え、道徳的・倫理的な発達をもたらすことです。
仏教は、人にとって善いものをもたらすために働きます。
仏教は、単なる祈りや礼拝や、仏様にお供え物を供えたり嘆願することだけで、自らの人生における目的が達成できるとは信じていません。
仏教はその人自らが向上し前に進むために、一生懸命働かなくてはならないと教えています。
人は、単に祈ることだけでは、善い結果を期待することはできません。
人は、善い結果を得るためには努力しなければなりません。
成功は努力した人にのみやって来るものであり、単に成功を望むだけの人のところにはやって来ないものです。
釈尊によれば、人にとって最も価値のある財産とは、智慧に達するまで、自らの心を耕し育てることができる能力を持っているということです。
これが、仏教の基礎です。
本当に人間にとって価値のあることとは、釈尊の教えのとおりに、自らの心を完全な域にまで発達させた人々の間に見出されることです。
不幸なことに、多くの人々は、尊い性質という最高のところにまで私たちすべてが到達できる能力を持っているのにもかかわらず、無知と利己的な心によって心が欺かれ曇らされています。
妄想のために、私たちの中には、怒りや嫉妬や憎しみのような何らかの心の汚れが存在しています。
これらの心の汚れは、私たちが悟りに達することを妨げるものとして働きます。その結果、私たちは、自らにもともと備わっている人間として本当に価値あるものを実現することができずにいます。
「自らが行いなさい」
釈尊は、彼の教えに従う人々に、救いを得るために誰か第三者に頼るようなことを勧めたりはなさいませんでした。
釈尊は、御自身をさえ、ただ救いに至る道のりを示すだけの存在だとおっしゃいました。
また、釈尊の教えに従う人々には、「智慧と最終的な救いを得るためには、自らの心を鍛え、清め、自らの道徳的な基盤を耕す」べきであるとおっしゃいました。
悟りは自分以外の外部の誰かによっては到達できないと、釈尊は繰り返し強調されました。
私たちは悟りに達するために働かなければなりません。悟りへの道のりを経験するためには、自ら努力し、知り、理解しなければなりません。
これほどに、釈尊は人間の知性を信頼なさっておられました。
釈尊は、彼の教えに従う人々に、ただ単に「釈尊は偉大な方だ」と思うことだけのものとして仏教を受け入れるべきではないとさえ強調されました。
その人自身が智慧を得るために努力をしない人は、スープを運ぶスプーンがスープの味を知らないのと同じことです。
私たちは、自らの良識を用いるべきです。自らの理性を使うことを通して理解を育むべきです。
この方法によってのみ、私たちは真理や存在の本当のありかたを実現することができるのです。
「カーラーマ経」(※増支部経典の中のお経)の中で釈尊によってなされている以下の助言は、人々を自分自身で考え、自らの人間としての尊厳を重んじるように、釈尊が明確に促しておられることを示しています。
釈尊はおっしゃいました。
「いかなるものも単なる世の中の評判や伝統や噂に基づいて受け入れてはなりません。感情的な理由や感情的な議論に基づいて受け入れてもなりません。自分自身の憶測によって受け入れてもなりません。もっともらしく見えるということで、なんらかの物事を受け入れてもなりません。自らの推測による意見によって受け入れてもなりません。「これは私の先生が言っていることだから」ということからその意見を受け入れてもなりません。
しかし、自らと他の人のためにそのことが良いことだと知っている時には、そのことを受け入れなさい。」
批判精神を持ってその事柄をまず知性的に吟味しないならば、誰からもいかなる教えも受けいれてはならないと、これほど明らかにはっきりと、なんらかの他の宗教的な指導者たちがかつて主張したことがあったかどうかは、疑問です。
釈尊は、人間は合理的に考えることができる存在だと信じておられる御方でした。
人は、他の人によって、悟りを実現することも、自らの救いを得ることもできません。
他人は、たとえ釈尊であっても、ただ、人がそれに従っていく道のりを示すための、アイデアやものの見方を提供することができるだけに過ぎません。
人は自ら考え、自らの努力で、個人として真理を理解すべきです。
誰も誰か他の人に真理を手渡すことはできません。
しかしながら、ただちにすべての解決を見出すことは誰にも期待されていません。
真理を探し求める道のりは長いものとなることでしょう。
人は、自らに真理の光がさし始めるまでの間、信念や確信や熱心な思いを維持しなければなりません。
「普段の生活における仏教の導きと幸せ」
釈尊のみ教えを解説するにあたって、一部の人々は不幸なことに間違った印象を生み出してきました。
その間違った印象というのは、仏教はその教えに従う人々に対して、すべての世俗的な所有をあきらめるように、また、いかなる形の世俗的な喜びも経験せず、生きるために働きも稼ぎもしない、無益な人生に導くことを、釈尊は勧めているというものです。
(このような見方は、釈尊のみ教えを完全に誤解している実に多くの人々の間に広く流布されてきました。)
他方、私たちは、煩悩を捨てることは、心の平和を持つためには最も重要な側面であることを理解しなければなりません。
しかし、煩悩を捨てることは、世俗的な喜びは過ぎ去っていく性質のものであることに実際に目覚める体験を通してなされるべきことです。
釈尊は彼の教えに従う人々に対して、なんらの働きもしないような不活発な生活を勧めてはおられません。そうではなく、人が経験することができる「四種類の幸せ」についての説法の中で、釈尊は明確に、人は富と財産を得るために一生懸命働かなければならないことを指摘されています。また、そのことによって仏教徒としての幸せな生き方がもたらされるということを指摘されています。
第一番目の幸せとは、人が一生懸命働き、熱心に努力したことにより、富や家土地・財産をうまく増やしていく時にもたらされるものです。
このように得られた富や財産を、家族の幸せのために、釈尊は奨励されています。このような態度が、人が世俗的な所有を持つべきではないという見解を与えるでしょうか?
第二番目の幸せとは、自分や家族の利益のために一生懸命稼いだ富を使い、消費することによって、得ることができる楽しい経験です。
その人は、他の人に害となることもなく、宗教の定めていることに違背することもなく、人生を楽しむものです。
このことを、釈尊は仏教徒としての生き方の一部として認めておられますし、人が世俗的な所有を持つべきではないという一部の誤った見解とは正反対のものです。
もちろん、人が俗世を捨てて、僧侶になる時には、その時はその人はすべての世俗的な所有をあきらめます。
しかし、釈尊は、日常生活を生きる在家の人にこれと同じことを勧めてはおられませんでした。
第三番目の幸福とは、いかなる負債も持たず借金から免れている人が経験する幸せです。
釈尊は、収入に応じて支出をいかに調整するかを人は知らなければならないとも助言しています。
人は、緊急の出来事以外においては、日々の生計を他の人に依存しないようにすべきです。
四種類目の幸福とは、最高のレベルの幸せとみなされています。それは、他の人に害を与えたり傷つけたりすることがなく、富と財産を稼ぎ増やすことをできた人に実現されるというものです。
このような幸福は、今生と来世を通じる素晴らしい経験となると釈尊はみなしておられます。
これらのさまざまなタイプの幸せを、人間の経済的な生活に関して、釈尊は明確にお説きになり、お示しになられました。
こういうわけで、上記の見解は、人は世俗的な生活を担うべきではないとする誤った考えと明らかに正反対です。
釈尊は、彼の教えに従う人々に、一生懸命働いて稼いだ富を注意深く大事にすべきだとさえ助言されました。
そのために、節約し、困った時のためになんらかの準備を注意深くしておくべきだと助言されました。
ゆえに、釈尊がすべての人に世俗的生活を放棄するようには望んでおられなかったことは明らかです。また、森の中に瞑想のために隠遁することをすべての人に望んでおられなかったことも、明らかなことです。
仏教において、人間として価値のあるものを発達させるために守るべきとされていることは、シンプルなものです。
人は、一生懸命働き、実直でなければなりません。
人は、自らの時間を、怠惰に過ごしたり何もしないことにより、不必要に浪費してはなりません。
睡眠に関しても、人は健康にとって最低限の必要を維持するためという観点から、合理的な態度でなければなりません。
人は、しなければならない役目の仕事を、その日が暑すぎるとか寒すぎると言い逃れてさぼるべきではありません。
自分がすることにおいては、どんなことに対しても、建設的で、実直でありなさい。
釈尊御自身、この世界に今まで生きてきた宗教的な教師の中でも、最もエネルギッシュで活動的な教師であったことが記録されています。
人類のために釈尊が尊い御説法をされた四十五年の間、毎日二時間だけしか釈尊は睡眠をとらなかったと言われています。
釈尊は人々に気高い生き方はどのように生きることによってもたらされるかを助言するために、当時のインド中を旅されました。
釈尊はよく人間の弱さや欠点を知っておられたので、彼の教えに従う人々に対し、人と仲良く付き合うことに注意するように助言なさっておられました。
人は、善い人々と付き合わなければなりません。
友人と呼ばれるものの中で一部の者は、詐欺やだまそうとしてさえいるような、友人からは程遠いものです。
ある西洋の学者はかつて、「おお、主よ、どうかわたしを私の友人たちからお守りください。私は私の敵からはどのように自分を守るべきかは知っているのです。」という祈りをつくりました。
釈尊は、私たちに、誰が友であるかを理解するように助言されました。
人と付き合う中で、私たちはその人の性格や気質や傾向を理解するように努めなければなりません。
良い人生をもたらすために最も大切なことのひとつは、いかなる極端にも走らないように、バランスのとれた生活をすることです。
釈尊は、宗教的な理由で自らの身体や心を痛めつけることを助言されたりはなさいませんでした。
私たちは、理性ある身として自らの宗教を実践することができます。
度を越して何かをしてはいけません。
人生の最も重要な側面は、心を育てることだということを、忘れてはなりません。
釈尊のみ教えは、三つの道のりに区分できます。
この人生で幸せになること、来世で幸せになること、そしてニッバーナ(涅槃)という究極の幸せに達すること。
これらの三つの種類の幸せを求める中で、人は尊厳と気高さを達成していくことができます。
原文
http://www.ksridhammananda.com/pdf/new/Human%20Dignity%20In%20Buddhism-%20edited.pdf