現代語私訳 善導大師 「般舟讃」(念仏讃歌)  第三十四、三十五、三十六節

現代語私訳 善導大師 「般舟讃」(念仏讃歌)  第三十四、三十五、三十六節




「結びの讃歌」


第三十四節


定善(浄土を瞑想すること)は、観無量寿経によれば十三の瞑想方法があります、
(浄土への往生を願います)


そのひとつひとつが詳しく浄土の荘厳がどのようなものかを説いています、
(はかりしれない喜びよ)


行住坐臥、常にこれらの浄土の荘厳を観察しなさい、
(浄土への往生を願います)


常に念じれば、心の眼におぼろげに見えます、
(はかりしれない喜びよ)


九品(凡夫の九段階)における散善(念仏と瞑想以外のさまざまな善)についても、観無量寿経によって讃歎しました、
(浄土への往生を願います)


それぞれの善を回向すれば、みな浄土に往生できます、
(はかりしれない喜びよ)


定善という入口は韋提希(いだいけ)夫人の要請によって、
(浄土への往生を願います)


散善の行は釈尊が自ら開かれました、
(はかりしれない喜びよ)


定善も散善も、両方とも回向すれば、浄土に入ります、
(浄土への往生を願います)


つまり、これは釈尊の特にすぐれた生きとし生けるものを救うための方法(異の方便)です、
(はかりしれない喜びよ)




第三十五節


韋提希(イダイケ)はただの女性であって、
(浄土への往生を願います)


貪りや瞋恚の心を具えた凡夫です、
(はかりしれない喜びよ)


娑婆世界を厭い捨てて、み仏の国を求めるならば、
(浄土への往生を願います)


極楽浄土の荘厳の世界が現れます、
(はかりしれない喜びよ)


極楽浄土を見ることができ、心は歓喜し、
(浄土への往生を願います)


さらに阿弥陀如来の御姿をはっきりと見て、生と死の二つを離れた悟りを成就します、
(はかりしれない喜びよ)


韋提希に仕える五百人の侍女たちも、同様に釈尊に申し上げました、
(浄土への往生を願います)


誓願します、同じく浄土に往生したいと思います」と、
(はかりしれない喜びよ)


その時、釈尊は皆に往生できるという保証を与えられました、
(浄土への往生を願います)


韋提希夫人と同じくあたなたちも浄土に往生でき、高度な集中状態の瞑想を成就して悟りを開きますよ」と、
(はかりしれない喜びよ)


帝釈天梵天毘沙門天持国天広目天増長天たちが空にいてその言葉を聴き、
(浄土への往生を願います)


同じように浄土に往生したいという願いを起こしました、
(はかりしれない喜びよ)




第三十六節


あまねくご縁のある方々に勧めます、常に念仏すべきです、
(浄土への往生を願います)


念仏すれば、観音菩薩勢至菩薩と同じく学ぶ仲間となります、
(はかりしれない喜びよ)


もし、よく念仏する人がいれば、その人は人々の中にあって最も上等な人です、
(浄土への往生を願います)


願わくば、同じく、さまざまな如来たちの家である極楽浄土に往生することを得て、
(はかりしれない喜びよ)


はかりしれない長い長い時の間において阿弥陀如来の側にいて悟りを開くのです、
(浄土への往生を願います)


どうしてすばらしい悟りを得るためには遠い道のりが必要だということになるでしょうか、そんなことはありません、
(はかりしれない喜びよ)