現代語私訳 善導大師 「般舟讃」(念仏讃歌) 第二十四節
念仏三昧の喜びよ、
(浄土への往生を願います)
心を専らにして阿弥陀如来を想うならば、見ることができることは疑いありません、
(はかりしれない喜びよ)
阿弥陀如来は、生きとし生けるものが久しく迷いの世界を流転輪廻して、
(浄土への往生を願います)
無明による重い障りがあり、悟りを開くことが難しいことを知っておられます、
(はかりしれない喜びよ)
阿弥陀如来は、自らの姿を生きとし生けるものが想う時、あまりにも大きすぎると難しいだろうと心配されて、
(浄土への往生を願います)
小さな御像を観想できるように浄土の池の中に置かれて教えられました、
(はかりしれない喜びよ)
百の宝石でつくられた花びらでできたひとつの蓮の花の中に、
(浄土への往生を願います)
一丈六尺(約五メートル)の化仏が、蓮の台(うてな)に坐っておられる姿を想いなさい、
(はかりしれない喜びよ)
大きな姿の阿弥陀如来も、小さな姿の阿弥陀如来も、生きとし生けるものの煩悩の障りを取り除いてくださいます、
(浄土への往生を願います)
行住坐臥、この想いを自ら励み努力すれば、
(浄土への往生を願います)
命の尽きる時には、すぐに自然(じねん)に還ります、
(はかりしれない喜びよ)
自然(じねん)とは、つまり阿弥陀如来の浄土です、
(浄土への往生を願います)
常に究極的な安らぎであり、退くことはありません、
(はかりしれない喜びよ)
たとえ百年の月日が過ぎても、一日のようなものです、
(浄土への往生を願います)
一日はほんの束の間です、どうしてそれだけの命を期待しても足りることでしょうか、
(はかりしれない喜びよ)