現代語私訳 善導大師 「般舟讃」(念仏讃歌) 第三十七節
般舟讃 第三十七節 第三十八節
「あとがき」
第三十七節
さまざまな念仏者の方々に申し上げます。
凡夫は、迷い生死の輪廻を貪るべきではありませんが、この迷いの生死を厭うことができないものです。
凡夫は、阿弥陀如来の浄土は軽んじるべきではないのですが、往生を願わないものです。
もしこの迷いの輪廻を厭うことができれば、娑婆世界からもはや遠く離れることができます。
往生を願えば、そのことがそのまま浄土にいつも居ることになります。
娑婆世界から遠く離れれば、六道に輪廻する原因は無くなり、輪廻の苦しい結果も自然となくなっていきます。
原因と結果がすでになくなったならば、輪廻の中の身体も心もすぐに絶たれます。
み仏の教えを仰いで、同じ往生を志す御同行の方々よ、よく自ら思いはかるべきです。
輪廻の中で生まれ変わっていくことが際限がないことを、一歩下がってよく推測して考えれば、いつも空性(ものごとには実体がなく、縁起である)と同時に存在しており、と同時に心(ヴィンニャーナ、識)があります。
もし空性と人々の世界が同時に存在していないというならば、あらゆる人々はつまり原因がないのに最初に出現したということになることでしょう。
心(識)がもし本当は原因がないのに存在していると言うのであれば、つまり木や石と同じことになるでしょう。
もし木や石と同じだというのであれば、つまり六道輪廻の原因となる業もないことになるでしょう。
六道輪廻の原因となる業がないというのであれば、凡夫も悟りを開いた聖なる人々も、誰が苦しみの原因やその結果、あるいは喜びの原因や結果を、覚えたり、知ることがあるでしょうか。
この道理によって推測し考察するならば、あらゆる人々には心(識)があります。
もし心(識)があるならば、つまり空性や宇宙の果てと同時にあることでしょう。
もし空性や宇宙の果てと心が同時にあるならば、ただみ仏とみ仏のみが心(識)の源を知ることができることでしょう。
念仏者の方々は知りなさい、自らの身や心が空性や宇宙の果てと同時にあり、そして今のこの身の今日に至るまで、悪を断ち、貪りの煩悩を除くことができなかったということを。
あらゆる煩悩がただ増えて大きくなってきたことを自覚すべきです。
また、釈尊や、さまざまなみ仏が、同じく、もっぱら阿弥陀如来を念仏し、極楽浄土を想い観察することを勧めておられ、そうすれば、この一身が尽きて迷いの命が断たれて、浄土に往生すると説いておられることを知るべきです。
どうしてこれが長い時間において大いなる利益をもたらさないことでしょうか、そんなことはありません。
念仏者たちは、心してこのことを行うべきです。
常に慚愧を心に懐き、み仏を仰いで、み仏の御恩にに感謝しなさい。
よくよくこのことを知るべきです。
般舟三昧行道往生讃 一巻
(念仏三昧の道による浄土への往生の讃歌 一巻)