正見について

仏典においては、明確に、

「布施に果はない。大きな献供に果はない。恭敬することに果はない。よく行われた、または悪く行われた行為の熟果はない。この世はない。あの世はない。母に仕えることに果はない。父に仕えることに果はない。死んで再生する生ける者はない。世間にはこの世とあの世とをみずから明らかに知り、目の当たりに知って説き、正しく進み、正しく実践した沙門・バラモンはいない。」

という見解が、邪見だとされている。
(中部経典の「アッパンナカ経」や「大四十経」参照)

その逆に、それらの経には、明確に、

「布施に果はある。大きな献供に果はある。恭敬することに果はある。よく行われた、または悪く行われた行為の熟果はある。この世はある。あの世はある。母に仕えることに果はある。父に仕えることに果はある。死んで再生する生ける者はある。世間にはこの世とあの世とをみずから明らかに知り、目の当たりに知って説き、正しく進み、正しく実践した沙門・バラモンはいる。」

という見解が正見だとされている。

この正見と明確に示されていることに反する見解は、その人の我見であり、仏教とは関係ないと言える。

しかし、なんと今の日本では、邪見が仏教を自称する中にも多いことかと思う。

大事なことは、我見を排し、仏のみ教えを聴き、仏のみ教えに随順することと思う。